Profile
西村 紗芳
セイノー商事
大阪府出身 23歳
高校からアーチェリーを始める。大学時代、インドアでは世界選手権ベスト16や全日本選手権で優勝を経験。シングルラウンドでは、インカレ2位や国体団体戦1位の成績を残す。昨年開催されたぎふ清流国体では、岐阜県代表として団体戦3位、皇后杯1位の成績に大きく貢献した。
何メートルも先にある的を狙って引き手の指を開くと、勢いよく矢が飛び出し、的に命中する。その静かな動作の繰り返しのように思われるアーチェリーだが、実際の競技はとてもハードだ。最も一般的な女子の競技では、70、60、50、30メートル先の的を狙い、それぞれ36射ずつ、合計144射も矢を放って順位を競う。雨や風などの気象条件も考慮に入れながら、1ミリのズレもなく弓を引く技術と体力、そして強靭な集中力が必要とされる。
そんなアーチェリーの世界で、3年後のリオデジャネイロ五輪を目指して日々努力を重ねるのが、今回紹介するセイノー商事で働く西村だ。
【始めて4年で世界大会へ】
セイノー商事に入社して2年目の西村は、購買課に所属。物品請求のあったカンガルーバックなどをメーカーに手配する受注業務を主に担当している。少し控えめに微笑む彼女からは、ちょっと見たところアスリートとしての雰囲気は感じられない。しかし仕事を終えると、彼女は大垣市内のアーチェリー場で黙々と汗を流す。遅い日は22時頃まで練習することもあるという。
2012年のロンドン五輪では、日本女子は団体で初の銅メダルを獲得した。表彰台で喜ぶ選手は、いつも試合で顔を合わせるライバルたちだ。
「本当におめでとう!と思う気持ちと同時に、自分もあそこに立ちたいという気持ちが強くなりました」
わずかに点が足りずにナショナルチーム入りを逃した悔しさをバネに、今彼女は3年後のリオデジャネイロ五輪を目指して奮闘中だ。
西村がアーチェリーと出会ったのは、高校に入学してからだった。本当は弓道をやってみたかったが、あるのはアーチェリー部だった。それでも体験入部をしてみたら面白かったので始めてみた、そんなノリで競技人生が始まった。もちろん、その頃はオリンピックを目指すことになるとは、夢にも思わずに。
初めは的に当てることも難しいが、練習をすればするほど、矢が中心部分に近づいていく。その目に見える上達が嬉しくて、西村はアーチェリーに夢中になっていった。同級生には、1年生の頃から大阪府の強化指定選手に選ばれる子もいたため、その子が強化練習で習ってきた事を学校で教えてもらったりして練習に励んだ。また3年生の夏ごろからは、特別に強化指定選手の練習にも参加することが許されていた。しかし西村自身は、3年の近畿大会で5位という成績が最高順位だったため、これを最後にアーチェリーをやめようと考えていた。
「そうしたら強化選手を指導している藤川先生に『やめるのはもったいない』と言われ、まだ続けたいと思っていた本当の自分の気持ちに気づきました。そんな時に、桃山学院大学からスポーツ推薦の話があったので、そこへ進学する事にしました」
桃山学院大学のアーチェリー部は、西村の1つ上の学年からスポーツ推薦で選手を集めていて、当時はリーグ戦の1部に所属していた。しかし実際には、大多数の部員が大学から競技を始める初心者だった。西村はそこで一気に才能を開花させる。
「大学の練習場が充実していたので練習量が増えたこともありますが、自分はアーチェリーの推薦でここに来たんだという意識が、頑張ろう!という気持ちを後押ししたのだと思います。春のリーグでは、自分でも驚くような点数を出して、これまでの自己記録を更新しました」
その調子を維持したまま、冬には的までの距離が18メートルと短いインドア(室内)の世界選手権の選考会にも出場し、見事代表の座を射止めた。そして初の
国際試合となった世界選手権本番では、当時の日本記録に迫る好成績で予選を5位で通過し、最終的にはベスト16という成績を収めた。しかしその一方で、
70、60、50、30メートルの距離で競うシングルラウンドや、70メートル先を狙うオリンピックの種目では、思うような成績が残せず苦しんでいた。
「ほんの1年前までの私は、全国大会にも出場できていませんでした。それなのに、その時はもう一度国際試合に、それもシングルラウンドで出たいと強く思うようになっていました」
【次の狙いはオリンピック】
シングルラウンドでは合計144本の矢を打ち、それぞれ当たった部分によって1点から10点が加算されていく。この合計得点が1,200点を越えると選手にはゴールドバッチが与えられ、更に1,300点を越すとレッドバッチを手にすることができる。ゴールドは大学1年生で獲得していたが、次の色にはいつも惜しいところで手に入れることができずにいた。
「とにかく苦手な70メートルをしっかり練習して、1,300点を出す事ができることを自分自身に強く思い込ませました。ちゃんと練習通りに打てれば、高得点が出ます。ダメかもしれないと弱気になるとうまくいかないので、逆に『自分は行ける、行ける!』と思うことで、徐々に力を発揮できるようになりました」
この西村の前向きな姿勢は、彼女が高校時代に出会った一人の先輩の影響が大きい。その先輩は、アーチェリーの強豪校に通う有名な選手だった。しかしある時、西村が観戦していた試合で、思わぬ成績不振に陥っていた。それでも彼女は全くイライラするような素振りは見せず、最後まで笑顔で競技を続けていた。そんな様子を見た西村は、自分もあんな選手になりたいと思ったという。またそう心がけることで、自然に気持ちが前向きになっていった。
2011年より、アーチェリーのナショナルメンバーは選考会によって選出されることになった。しかもその年の世界選手権で代表枠を取れなかった日本チームは、翌年のロンドン五輪の代表メンバーを決め直すことになっていた。当時大学4年生だった西村も五輪代表選手を目指し、まずはこの選考会で6位以内に食い込んでナショナルチームのメンバーになろうと、3日間の戦いに挑んだ。しかし大会初日、西村の点数は伸び悩んだ。
「監督などからアドバイスをもらいながら競技をしている選手が多い中、私には専属の指導者がいませんでした。調子が悪くても誰にも聞けないし、ずっと一人ぼっちで心細かったです。しかし2日目からは大阪から藤川先生や、高校時代の顧問の先生が来てくれました。もうそれだけで、泣きそうなぐらいホッとしたのを覚えています」
そこから西村は巻き返しを図った。しかし結局1日目の点数が響き、6位の選手にわずか13点足りず、ナショナルチーム入りを逃してしまう。手が届きそうなところまで近づきながら、手にできなかった悔しさは、西村が本気で次のリオデジャネイロ五輪を目指す原動力となった。
またこの年は、西村にとってもう一つの大きなターニングポイントとなる出来事があった。それは岐阜県の選手として岐阜国体を目指さないかというオファーだ。この年に開催された山口国体で、西村ら大阪府の成年女子団体のメンバーは、同競技初優勝という快挙を持ち帰っていた。そのため大阪から離れることに対し、強い抵抗感を感じた。しかし尊敬する先輩から、『一度、外に出て、色んな人とコミュニケーションをとって、多くの経験を積む事も大切だ』と言われ、岐阜県へ行く決断をした。そして先輩の言葉通り、積極的に自分から話しかけたり、色んな場所へ出掛けるように努めた。
「大阪にいたら大阪のやり方しか知りませんでした。しかし新しいメンバーには北海道から来た人もいて、岐阜、北海道、大阪それぞれのやり方を取り入れ、どの方法が良いのか考えられる幅が増えたことが、大きな収穫です。大学時代よりも自分の成長を感じています」
今年の5月、西村は念願だったシングルラウンドでワールドカップに出場した。試合は震えるほど緊張するが、楽しくて仕方がないという。
「目標は次の五輪です。そのためには今年の11月の選考会でナショナルチームに入り、国際大会で経験を積んでいく必要があります。セイノー商事の人も、応援してくれています。今度こそ、夢を実現したいです」
西村の目は五輪を射止めるため、まっすぐ3年後に照準が当てられている。
(文中・敬称略)