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西濃運輸野球部 佐伯尚治さん(2014年09月18日)

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西濃運輸野球部 佐伯尚治さん Profile

佐伯 尚治
西濃運輸 野球部(ネッツトヨタ岐阜)

福岡県出身 31歳 
小学校2年から野球を始め、高校3年で甲子園に出場。大学4年次には、秋の明治神宮大会で優勝を経験。2006年に西濃運輸入社。その後オランダで開催された国際大会やアジア競技大会へ日本代表として出場。2014年の都市対抗野球では、最優秀選手へ贈られる橋戸賞を受賞した。



 9回の表、ツーアウト。西濃運輸野球部は、あとアウト一つで悲願の黒獅子旗を手にするところまで来ていた。一塁のベースカバーから佐伯が戻ると、ショートの東名が駆け寄り「皆の想いを代表して、最後のボールを投げてくれ。お前に託した」とボールを渡された。その瞬間、目に熱いものがこみ上げた。そして打球がレフト田中のグラブに収まると、仲間が駆け寄る中、キャッチャーの森と抱き合い、佐伯は仰向けにグラウンドへ倒れこんだ。溢れる涙をグラブで覆いながら、頭の中をこれまでの野球人生の一幕一幕が駆け巡った。


夢を叶える投球
  幼い頃から、いつも佐伯の家では巨人戦のテレビ中継が流れていた。それを父親と観ていた佐伯が、野球に興味を持ったのは自然なことだったのだろう。小学校へ上がると、父親に自分も野球がやりたいと頼んだが、最初は話を聞いてくれなかったという。それでも諦め切れなかった佐伯は、2年生になると再び父親に頼んだ。すると「わかった」と、地元の野球チームへ連れて行ってくれた。普段から厳しい父親だが、野球に関しても一切妥協は許されなかった。
「父親は練習や試合によく来てくれましたが、友達の前でも容赦なく僕を叱るので、そのスパルタぶりはまるで星一徹のようで有名でした」
 中学校へ上がると野球部に入部したが、そこは完全な年功序列社会で、上級生以外が試合に出られる望みは薄かった。そこで小学校の時のチームメイトが多く所属していた硬式野球のチームへ移った佐伯は、レフトやファーストを中心にプレーをしていたが、たまにピッチャーを務めることもあったという。しかし背が低く、上から腕を振り下ろしても速い球が投げられなかった。そこで打たれないようにするにはどうしたらいいのか考え、横からや下から投げるなど、色々な投球フォームを試していた。その経験は、後になって活きてくることになる。
 高校へは野球の推薦で進学したものの、同級生の中には特待生として入学したピッチャーが5人もいて、佐伯はベンチにも入れなかった。
「悔しかったですね。だからランニングも、あいつらより絶対に早く走ってやろう!と思いましたし、自主練もたくさんしました。そうしたら背も伸びた影響もあったと思いますが、急に球のスピードが速くなり、ようやく2年の春から試合で使ってもらえるようになりました」
 そして夏の大会の前に、部長から上からではなく横から投げてみるよう助言される。すると曲がる球が得意だった佐伯の長所が更に伸ばされ、より変化の大きい球が投げられるようになったのだ。秋の大会では、エースとしてチームを福岡大会優勝へと導き、九州大会まで駒を進めた。
都市対抗野球本大会決勝戦では二塁を踏ませない気迫の投球を見せた佐伯投手 「ここで勝てば、来年の春の甲子園は確定だと言われる大事な試合でしたが、土砂降りの中、相手に10点も取られて敗退しました。ショックで3日間、ご飯も食べられなくなりました」
この雪辱を晴らすべく、夏の地方大会で佐伯は全7試合マウンドに立った。決勝戦では捻挫をした足首をガチガチにテーピングで固定し、痛み止めを飲みながらの気力の登板となった。それでも佐伯は最後まで投げ切り、チームに夏の甲子園初出場という快挙をもたらした。
「夢が1つ叶った瞬間でした。甲子園では2回戦敗退でしたが、大勢の観客の前で試合ができたことや、終戦記念日にグラウンドで黙とうをしたのが良い思い出になっています」
 高校卒業後の進路については、社会人野球を希望していた。理由は2つあり、父子家庭だったため、早く父親の負担を軽くしたいとの想いと、当時は社会人野球の選手が五輪へ出場していたため、日本代表として野球をしたいというものだった。しかし先生の強い勧めもあり、大学に進むことになった。
「結果的に進学して良かったです。その間に体を作ることもできましたし、社会人野球の経験を持つ監督から、厳しさも教わりました」
結果もきちんと残してきた。4年次の秋、学生野球の2大大会の一つ、秋の明治神宮大会にエースとして臨み、ここでもチームの歴史に同大会初優勝という快挙を刻んだのだ。

【流れを引き寄せる投球】
 大学卒業後は、やはりプロへ行きたいという想いもあった。しかし春頃から声を掛けてくれていて、学生時代の先輩も何名かが入社していた西濃運輸へ行く事になる。
「先シーズンに学生日本一になっていたので、大したことはないなと思われたくなくて、入社後は必死でした」
そこから佐伯は、着実に不動のエースとしての地位を確立していくことになる。いきなり5月のベーブルース杯では、優勝に貢献したとしてMVPを獲得。都市対抗野球本大会でも初戦で先発し、西濃運輸は佐伯の完封勝利で6年ぶりの東京ドームでの勝ち星に沸いた。また高校時代の夢も、意外なカタチで叶うこととなる。7月にオランダのハーレムで開催された国際大会と、11月にカタールで行われたアジア競技大会の日本代表選手に選出され、日の丸を背負って戦うことができたのだった。
 しかしその後、本人が暗黒の時代だと振り返る時期が訪れることになる。ドラフトの可能性がある2年目、佐伯にはどの球団からも声は掛からなかった。3年目は、東京ドームで一勝もできず、存在感を示す機会を失った。そして4年目からは、チームは予選を突破することもできなかった。プロ野球選手への道が閉ざされつつあった。佐伯は、自分はなぜ野球をやっているのだろう、自分にできることは何なのか?自問し続けた。その末に、佐伯は新たな目標を見出すことになる。それが『チームを日本一にする』こと。それこそが、自分が日本一のピッチャーとなれる唯一の道だと確信した。
 そこから佐伯の中で大きな変化が起こる。それまで相手チームを0点に押さえることだけを考えていた野球から、いかに試合の流れを自分のチームに引き寄せられるかを考えるようになったのだ。極端な話、自分が2、3点失っても、仲間が4、5点取って勝つ『ゲーム作り』を始めたのだ。
「僕は小・中学校と色々なポジションを経験してきたので、味方のピッチャーが四死球やボールを連発すると、後ろで守る選手の気持ちが落ち込んでくるのがわかるんです。だったら逆に、相手バッターに打たせた方が、仲間の動きは良くなります。次のイニングに仲間に点を取ってもらうために、どうしたら良いリズムを作れるか、今はそこだけを考えて投げています」 

橋戸賞を受賞した佐伯投手 そんな流れを実際に創り上げた試合が、今年の都市対抗野球本大会でも見られた。西濃運輸が初優勝を掛けて臨んだ、太田市代表の富士重工業との決勝戦だ。2回に1点を先制した西濃運輸だったが、この回は更にノーアウト満塁になりながらも、三振・三振・ファウルフライに倒れ、追加点が取れなかった。佐伯は、流れが相手に傾き始めているのを察し、3回の表の守備は、渾身の投球で相手バッターをきっちり3人で抑えた。その後、試合は6回まで動かなかったが、流れはセイノーにつなぎとめられていた。そして1点の追加点をもらうと、後は一球一球、丁寧に投げることだけに力を注いだ。
「決勝の前日、チームメイトで同期入社の大野に言いました。『明日は絶対に負けないよ。なぜか教えてあげようか。俺は高校の時から、先発した決勝戦は1回も負けていないんだ』と。そんな事が言えるぐらい、チームの雰囲気が良く、負ける気がしなかったですね」
 佐伯は、『流れ』は野球だけでなく、自分の周りに起こるすべての事にあると言う。全てのイニングで全力投球する必要は無い。ただここで流れが変わる!というポイントを見極めて、きっちり押さえられるかで、人生が大きく動く。次に佐伯がどんな流れを引き寄せるのか、注目していきたい。




(文中・敬称略)

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