西濃運輸

活躍する社員

岐阜日野自動車 成瀬開地さん(2017年12月06日)

Profile

成瀬 開地
岐阜日野自動車スキークラブ

長野県出身
クロスカントリースキーで活躍していた4歳上の兄にあこがれ、小学校の時からクロスカントリースキーを始める。岐阜日野自動車スキークラブに入社後、2012年ぎふ清流国体ノルディックリレーチームのメンバーとして優勝。 2015年~17年の冬季国体ノルディック距離競技では個人3連覇を果たした。

 平地や急坂のある雪原をスキーで滑るクロスカントリースキー。ヨーロッパやカナダなどで人気があり、特に北欧では幅広い年齢層の人が日常的に楽しむスポーツだ。アルペンスキーの半分程の幅で、つま先のみ靴と固定されている特徴的なスキー板と、雪面を押し大きな推進力を得るポールを使用して、雪の上をスピーディーに走る。来年に迫る平昌五輪の同種目への出場を目指し、日本代表の選考に勝ち残るべく、日々奮闘する選手が成瀬開地だ。

【「結果を残したい」、競技者としての成長】
 成瀬の競技者としての原動力は「結果を残したい」という信念、そしてクロスカントリースキーを最優先として、ほとんどの時間を費やしてきた自分をサポートしてくれる全ての人への「感謝」と「恩返し」の気持ちだ。その想いがあるからこそ、ひたすらにクロスカントリーと向き合い、練習に励み、結果を残せる選手になった今がある。 今でこそ国体で優勝できる選手になった成瀬も、学生時代はなかなか結果を残せなかったそうだ。むしろクロスカントリースキーを始めた頃は、競争心がなく、切磋琢磨する性格ではなかったという。雪の上を早く走れることが楽しいという気持ちが先行していたそうだ。そんな成瀬に競技への執着心が生まれるきっかけとなったのは高校
1年生時のインターハイ予選だった。
 「白馬高校の一員として出場した冬のインターハイ予選で、部員の中でただひとり予選落ちし、インターハイに行けませんでした。その時はとにかく悔しくて、インターハイに行きたい、結果を出したいという気持ちでいっぱいでした」
 この出来事があって以降“楽しい”から“競技”へとクロスカントリースキーの捉え方が変わったという。努力の甲斐あって、インターハイに出場できるレベルへ成長したものの、まだまだ全国では上位の成績を残せなかった成瀬は、大学で結果を残したいと考え、クロスカントリーの強豪日本大学に入学する。大学では朝練、午前練、授業後の部の練習と、練習漬けの毎日を過ごし、その日々の中で練習の重要性に気付くこととなる。
 「コーチと練習メニューの話をしていた時、これまでの自分は与えられた練習メニューをただやっていただけだということに気付きました。なぜコーチはこのメニューを出すのかを客観的に見ることができた時に、自分にとってどんな力になるのかを理解して練習に臨む必要性を実感しました」
 頭で考えて練習をするうちに、クロスカントリーは練習すればするだけ強くなれる競技だと改めて学んだそうだ。練習の重要性を強く認識するようになった成瀬は、大学
4年生の時、大学を中退し、社会人としてクロスカントリースキーに専念することを決断する。
 「高校時にトップレベルだった選手と上位でなかった自分では、スタートラインが違います。大学という同じステージで同じ練習をしていても差は縮まらない。だったら勝つためには彼らが授業に出ている時間に練習するしかありません」
 大学を辞めることを親に相談した時は、せめて卒業したらと言われたが、大学卒業の肩書よりも優勝という肩書が欲しいと、自分の気持ちを親に伝え、納得してもらったという。成瀬は、自分の意思を尊重してくれた親に対して結果を出して恩返しをすること、そして大学卒業よりも結果を出すことを選択した自分の意思を無駄にしないよう、より練習に打ち込もうと強く決意したそうだ。所属先を探し始めた成瀬に声を掛けてくれたのは、兄が所属していた岐阜日野自動車だった。当時岐阜日野自動車は、2012年のぎふ清流国体ノルディック距離リレー競技で岐阜県代表として優勝を目指しており、そのメンバーとして成瀬に声が掛かったのだ。岐阜日野自動車の所属選手として、国体リレー競技岐阜県代表の1番手で出場した成瀬は、区間3位の走りで後続へつなぎ、チームの優勝に貢献する。こうして岐阜日野自動車の一員としての居場所を掴んだ成瀬は、晴れて自分の目標に向けて練習に専念できる環境を手に入れることができた。

【結果を残すことが、サポートしてくれた方々への「恩返し」】
 生まれ育ち、日々トレーニングをしてきた白馬に拠点を置いて練習に専念できる岐阜日野自動車の環境は、社会人選手として大変恵まれているという。結果がなかった自分を拾ってくれて、素晴らしい環境で練習に専念させてもらえる岐阜日野自動車、岐阜県にとても感謝しているのだそうだ。だからこそ恩返しをしたい気持ちも強かったという。その気持ちが空回りし、14年の国体で大きな失敗をする。スタート時間を間違えて準備が間に合わず、ペナルティを受けたのだ。結果は43位と散々なもので、岐阜県にポイントを持ち帰ることができなかった。
 「会社や岐阜県からの期待を自分のミスで裏切ってしまった、社会人としてやってはいけないことをしたという思いで、ストレスから顔面神経痛になりました。それぐらい、迷惑を掛けたことを悔やんでいました」
 その後出場した全日本選手権では、国体での失敗を引きずり、モチベーションは高まってはいなかったそうだが、その分余計な力が抜け、ゆっくりスタートできたことが功を奏したのか、3位表彰台を獲得できたという。この結果を受け会社からは国体での失敗を挽回したと言ってもらえたが、失敗したことは消えない、次の国体で必ず結果を残さなければと、成瀬は改めて感じたという。そして、必ず結果を残すと誓って臨んだ15年のぐんま冬国体ノルディック距離成年Aの競技で、成瀬はついに個人種目で表彰台の一番高い場所に立つことになる。
 「やっと優勝できたと思いました。結果を残し、岐阜日野自動車に、岐阜県に恩返しをすることができました」

 国体で優勝できた要因、それは期待をプレッシャーではなく力に変えられたからではないかと成瀬は言う。国体は個人競技ではなく県単位で戦う独特の大会であり、期待を背負っているプレッシャーを感じるそうだ。過去にはそれに飲まれて失敗もした。今は国体会場のコース脇で応援してくれる多くの人の「頑張れよという声=期待」が目に見えると力になるという。成瀬はその後も国体で強さを発揮し、16年、17年の国体ノルディック距離で優勝、見事3連覇を達成した。「結果を残した」成瀬だったが、意外に達成感はなかったそうだ。国内で上位の選手になった成瀬はワールドカップやアジア大会など世界で戦う機会が増え、「結果を残すべき場所は世界」という想いが生まれていたのだ。

 世界で戦うスキー選手にとっての指標は、国際スキー連盟が開催する大会で獲得できるFISポイントだ。いわば世界ランキングを決めるポイントで、規模の大きな国際大会に出場する日本代表を選考する上でもFISポイントは重要視されている。このFISポイントを日本人でカウントすると成瀬は5番手前後だという。そんな成瀬の現在の最大の目標は、18年2月に開催される平昌オリンピックへの出場だ。代表選手枠はまだ何名になるかは分からないが、ワールドカップなどの国際大会の日本代表枠が4名であることを踏まえると、同程度ではないかと見込まれる。現状強化指定選手は2名いるが、残りの枠を争う選手は横一線、この冬に活躍した選手がメンバーに上がっていくと成瀬は考えている。そのためにも冬のFISレース、ワールドカップの一戦一戦に集中し、とにかく上位に入って結果を出すことを狙っている。
 
「オリンピックは競技者として憧れの場所です。やはりオリンピック出場、その領域には到達したい。そして僕がオリンピックに出場することで岐阜県、岐阜日野自動車そしてセイノーグループの従業員の方も盛り上がってもらえるなら、それ以上に嬉しいことはありません。オリンピック出場は僕をサポートしてくれた方々への最大の恩返しだと思っています」


(文中・敬称略)


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