西濃運輸

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西濃記念館館長 七戸直栄さん(2018年10月26日)

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西濃運輸 野球部 阪本一成さん Profile

七戸 直栄
西濃記念館 館長 

整備士として西濃運輸に入社。大垣本社の工務課で研修を受け後、大阪支店、四日市支店などで整備士として勤務。浜松支店在籍時には車両故の担当も兼任した。その後、田口義嘉壽代表の運転手を長く担当する。運転を降りた後は、西濃記念館の館長として、お客さまや従業員、地域の小学生なに、西濃運輸の歴史を後世に伝える語り部としての役割を担っている。



 大垣市の西濃運輸本社から東へ100m程の場所にある西濃記念館。もとも西濃運輸本社社屋として使用されていた建物を活用し、西濃運輸の歴史を後世伝えるために記念館として改修された施設だ。社員教育の場だけでなく、お客さまや地域の小学生の見学の場として活用されている西濃記念館で、その館長とて語り部を務めているのが今回紹介する七戸だ。


【“知りたい、学びたい”天職だった館長の仕事
 階段を昇り、門を抜け、西濃記念館の敷地に入ると、伊吹山や揖斐川、養老の滝など、岐阜県西濃地域を象徴する山、川のイメージを表現した庭園、そしてその奥に大垣市旭町にかつて存在していた旧西濃運輸本社社屋を移転した建物が現れる。建物の中には、当時の社長室が再現されている他、名誉会長が使用していた木製の机、印鑑袋、創立当時のトラックの写真など、会社の歴史を振り返ることが出来る展示収蔵品が保管されている。
 西濃運輸の歴史や田口利八名誉会長の功績を後世に伝えるために、昭和58年2月に開館した西濃記念館には、社員やお客さま、社会見学で訪れる地域の小学生など、毎年多くの人が来館し、これまでに約38,000もの人が訪れた。この西濃記念館で来訪者を迎え、館内を案内し、西濃運輸の歴史や展示収蔵品、それらに込められた想いを伝える語り部、それが館長である七戸の役割だ。
 もともと七戸は整備士として西濃運輸に入社した。大垣本社の工務課に所属して整備の仕事をし、その後田口義嘉壽代表の運転手を務めてきたが、自身の腰痛が悪化し、63歳の時に運転手を降りた。運転手として続けられない以上、会社に貢献出来ないと、七戸は西濃運輸を辞めるつもりでいたという。そんな七戸に対して、よく頑張った。これからも西濃運輸に残ってほしい。西濃記念館を社内教育の場として役立てたいから、館長になってほしい。そう田口義嘉壽代表から声を掛けてもらった。その言葉に感謝しかなかったと七戸はいう。
 西濃記念館の館長に就任した七戸の最初の仕事は、西濃記念館で何をしていくかを考えることだった。館長として今後どのようにしたらいいものかと悩み、3日間、西濃記念館に泊まり込んで、ハンドルマークの下で禅を組んで考えたという。その後寺社や美術館をプライベートで訪問しては、館長という仕事について、色々と助言を聞いて歩いたそうだ。館内のきれいさについて尋ねた、ある美術館の職員から言われた「物はいくらでもきれいに出来る。しかし迎える人の心をきれいに、元気に出来るのはあなたです」という言葉が深く心に響いた。
 「館長として、訪れた人の心をきれいにする、元気にする。そのためにはどのようにしたらいいかと考えた時に、今自分に出来ることは“知り”、“学び”、“語る”ことだと思いました。それからはまず本を読み、実際に見学をして、人の話を聞き、そこから得られたことを自分自身が呑み込み、詩に書いて言葉にするようにしました」
 元来、“知る”ことが好きで、“知り得た”ことの裏付けも自分自身で取りたい性格な七戸は、いつ、なぜ、どうして、を調べたい。そして調べれば調べるほど、学べば学ぶほどに蓄積されていった知識は、その後の記念館の仕事に生きていったそうだ。西濃記念館の仕事は“知る”ことが好きな七戸にとってまさに天職だったのだ。
 何を“知ろうか”と考えた時に思い出したのは、昔仕えた支店長の「地域を知る」という言葉だった。「整備士は車のことだけじゃなく、ドライバーのことも地域のことも知らなければいけない。それが整備にプラスになり、何かあった時には地域の人が助けてくれる」。地域を知るために、七戸はドライバーの集配に同行し、初めてドライバーの行動やクセを知ることが出来た。そして安全が第一であると再認識した経験があり、「地域を知る」という言葉の大切さを、身を持って感じていた。その言葉が思い浮かんだのだ。それから、記念館を訪れたお客さまや社員に話が出来るよう、自分が今住んでいる濃尾平野50km圏内のことをとことん調べたという。伊吹山のこと、関ヶ原のこと、木曽三川のこと。話せば話すほどに聞く人が納得していく顔を見られて、語り部としての自信になったという。
 そして田口利八名誉会長や田口利夫代表、田口義嘉壽代表、歴代仕えた支店長から“学んだ”ことも館長の仕事に役立った。特に田口利八名誉会長から学んだ“見ざる者、知らざる者、語るべからず”、この言葉は七戸の心に今も深く刻まれている。
 「自分が見て、調べた結果、嘘の無いことを言っているのか?そうでなければ話を聞いた相手が、間違ったことを信じて行動することになってしまう。そして根拠のない話を信じて恥をかいてしまう。この言葉は、館長として語り部となった私にとって今も最も重要な言葉です」


昨年の都市対抗野球大会で打席に立つ阪本

【館長としての七戸の想い】
 今も西濃記念館に毎年多くの人が訪れることを七戸は大変ありがたいという。小学生達が田口利八名誉会長や西濃運輸について関心を持って聞いてくれる姿や、初めて記念館に来て会社の歴史を知る社員が感心する姿を見ると、つくづく感じるそうだ。
 「来館される全ての方に館長として一番伝えたいのは“嘘のない土台”です。しっかりした土台がなく、上辺だけしか知らなければ、人に同じことを伝えられません。記念館を訪れた社員すべてが、どこへ行っても同じことが言えるようにしたいと思っています」
 七戸は整備士の頃に歴代の管理職から教わったこと、運転手の頃に田口利八名誉会長や田口義嘉壽代表から教わったことの全てを、西濃記念館に訪れるみんなに伝えてあげたいと思っているという。西濃運輸の社員として、同じ志を持ち、誇りを持って西濃運輸という会社を想ってほしいと思っている。そして、聞いた話と違う、そう来館された人達に思われないように、自分はどう伝えたらいいのか、を常に考えているという。聞く人が変われば、言葉の捉え方も違う。だから語り方も変わってくる。自分の語りに責任を持ち、自分の語りで相手を酔わせていく力がなかったら、語り部として失格だと思っている。そして、しっかりとしたことが伝えられなくなったら辞め時だとも思っているという。土台を理解して納得して、すっきりした顔で帰ってもらえることが一番嬉しいそうだ。
 館長という仕事を愛し、誇りを持って西濃運輸について語る七戸の、館長としてのモチベーションは何なのか。七戸に聞いてみた。
 「一度会社を辞めた自分を拾ってくれ、多くのことを学べたことで、会社に恩返しをしたいと思っているからです。西濃運輸の歴史を、田口利八名誉会長の功績を語り部として後世に伝えること、西濃運輸に誇りと愛を持ってもらうことが、私にとっての恩返しだと思っています」

 実は七戸は整備士の頃に一度、西濃運輸を辞めたことがある。その後青年会議所の会議でたまたま田口義嘉壽代表に出会い、それが縁で西濃運輸に改めて入社している。その時、西濃運輸に戻る決め手になったのが「大垣のおふくろ(田口このゑ夫人)も心配している」という田口義嘉壽代表の言葉だった。大垣本社工務課に所属していた頃、以前長野県の木曽福島にあった福寿山荘が完成した際に、七戸は田口利八名誉会長、このゑ夫人の運転手を任されたことがあり、面識があった。そのこのゑ夫人も心配しているという話を聞き、会社を辞めても自分のことを考えてくれる人がいる、そういう人の温かみを嬉しく感じたから、また西濃運輸で働きたいと思ったという。そして運転手を降りた際にも、よく頑張った、残ってほしいと言ってもらえた人の温かみが、七戸にとって心の支えになっている。
 「私は西濃運輸で働いたことで、多くの人に出会い、人の温かさに触れ、整備士、運転手、そして館長の仕事を通じて、七戸直栄という一個人の存在を周囲の人に肯定してもらえた、そう思っています。だからこそ、私という存在を証明してくれた西濃運輸について伝える、西濃記念館の語り部という仕事を任せてもらっていることに感謝しています」



(文中・敬称略)

 

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