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西濃運輸野球部 林 教雄さん(2015年03月18日)

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西濃運輸野球部 林 教雄さん Profile

林 教雄
西濃運輸 野球部(セイノー商事)

大阪府出身 65歳 
小学生から野球を始め、高校を卒業して西濃運輸に入社、現役時代は捕手を務めた。都市対抗野球では10年連続出場の表彰を受け、引退後はマネージャーやコーチとしてチームを支える。1987年に監督に初就任し、4度目の監督就任で2014年チームを悲願の都市対抗野球優勝へ導く。



 都市対抗野球優勝後の日本選手権大会2戦目の相手は、強豪の日本通運。緊迫した投手戦が続き、両チーム無得点のまま9回の裏を迎えていた。そこで4番伊藤の2塁打から2死満塁の好機を作ると、相手投手の暴投で3塁走者がホームへ帰り、西濃運輸野球部はサヨナラ勝ちを決めた。
 この試合後、監督の林はベンチ裏で報道陣にしばらく話ができない程、感動し目からは涙が溢れ出た。そこには林が長年、捧げてきた野球人生が形となって表れていた。最後まで諦めずに、ベンチも含めたチームが一丸となって勝利を掴みとる、目指してきた野球が詰まっていたからだ。


チームを支える野球人生】
  『チーム作りは人作りから』を信念としている林は、常日頃から選手に自分が歩んできた道を語りかけている。
「今、自分がこのチームの中で何をやればいいか、やれることを精一杯やれ。やるべきことを毎日積み重ねて、少しずつ磨きをかけろ」
選手に求めることは、大好きな野球を仕事としてできる環境に感謝して、好きなことならば自ら進んで一生懸命やる姿。
物心ついた頃から、林は友人と近所の広場で野球ばかりをやっていたという。長嶋茂雄に憧れて、彼の真似ばかり。将来はプロ野球選手になるのが夢だった。小学校や中学校では3塁を守っていた林は、高校へ進学すると監督から捕手に任命され、3年間レギュラーとして活躍した。高校卒業後は社会人野球でプレーすることを目指して、3年生の夏が終わった後も練習に励んでいた。そんな時、高校OBの紹介で、西濃運輸野球部のセレクションを受けることになり、合格して入社することとなった。
 当時の野球部は創部9年目で、2年連続4回目の都市対抗野球本戦出場を果たすなど、勢いがある発展途上のチームであった。
「入部してみると、とても敵わないようなすごい捕手がいました。そこでレギュラーにはなれないけど、憧れの後楽園球場に行くためにどうしたらいいのかを考えました。大好きな野球を仕事として、少しでも長く続けたかったのです」
そこで、林はチームにとって必要な人間となるために2つのことを実践する。1つ目は、投手が気持ち良く調子が上がる投球ができるように、良い音を立ててミットで受け、投手から受けてくれとリクエストがくるような捕手を目指した。2つ目は、現在のようにピッチングマシーンがない当時、誰もが敬遠したがるバッティングピッチャーを、毎日自ら買って出たのである。すると2年後、積極的にブルペン捕手を務めていた林は、投手の状態を良く把握していることから、監督から大事な公式戦前には調子が良い投手が誰なのかを聞かれる頼られる存在となった。林はレギュラーのポジションこそなかったが、チームに欠かせない一員であると、周りから認められるようになったのだ。これを証明するのが、都市対抗野球の10年連続出場の表彰である。レギュラーでなかった林が10年連続ベンチ入りを果たしたことは、チームにとって重要な人材であったことを表している。
練習初めのミーティングで選手に話す様子(写真右手前)  10年目からマネージャーも兼任していた林は、翌年に選手を引退し、マネージャーに専任してチームを支えていた。しかしこれまで12年連続で本戦出場と好調だったチームは、一転して3年連続で出場を逃すことになる。創部の条件として田口利八名誉会長が「3年目にして全国大会にも出られないようなチームなら認めない」と話したという言葉が脳裏をよぎった。しかし12年連続で全国大会に出られるまでに育ったチームを、まさかやめないだろうと思っていたという。しかし現実は甘くなく、野球部は休部となった。
「もう野球ができない。目標も何もかも失いました。テレビでプロ野球や高校野球を見ることすら嫌になりました。その時は、本当に野球を忘れたかった」
野球を愛して一生懸命やってきただけに、その反動は強く、野球から目を背けたくなるほどショッキングな出来事だったのだ。林は、野球連盟の事務連絡をするため、ただ1人マネージャーとして残り、本社で仕事を続けていた。半年も経つと、グラウンドには、雑草が生い茂り、その横を通ることすら憂鬱になったという。

【チームを導く野球人生】
 野球から離れた生活が2年経過し、当時総務課に所属していた林は、全国の店所長が集まる1月の会議の田口利夫前代表の社長訓示で、何の前ぶれもなく野球部復活の話を耳にする。驚きと同時に、この上ない喜びが込み上げてきたという。それから林は、コーチ兼マネージャーとして1年かけて選手を集め、野球部を再始動させた。そして選手を一から集め、3年間チームを見てきた林は、野球部復活4年目に監督を任されることとなった。復活からまだ本戦出場を果たせていない重圧はあったが、林は「人生の中で、社会人野球の監督をやれるということを1つのチャンスと捉え、自分の思うようなチーム作りをしよう」と決意する。練習面の厳しさもさる事ながら、努力してチームプレーを大事にするよう、選手には強く説いた。
 林の監督としての1つの強みは、試合に出られない選手の気持ちが分かることだという。その選手たちのやる気を引き出し、チームに参加させ、チームの士気を高めることで、勝つチーム作りを目指した。そこに加えて選手のやる気を引き出すために、自分の思いを選手に伝えるテクニックも身につけた。読書の習慣が全くなかった林は、休部中に初代監督から勧められて本を読み始めたことで、選手に「どういう野球を目指すのか」「どういうチーム作りをするか」を具体的に言葉で伝えることができるようになったという。その後、野球部が不調に陥ると林はチームを委ねられ、3度も監督を経験した。そして2012年に4度目の監督に就任した林は、これまでとは違う印象をチームに感じることになる。
「野球の技術はあるのですが、本当のチームワークというものが分かっていませんでした。ミスや気の抜けたプレーには、上下の関係なく遠慮なく指摘し合えなければ、チームワークが良いとは言えないと選手に話したのです」
さらに試合になると、選手は打席に入ったら場面ごとにベンチを見て、監督の指示待ちをした。そんなチームに林は、自分で考える野球をするように指導した。すると2014年の春のキャンプで、選手にある変化が出始めた。
「選手の目つき、顔つきが変わってきたのです。選手たちから、本当に勝ちたいという思いが伝わってきました。目一杯、自分自身で練習をやってきたから、悔しくて勝ちに飢えるのです」 

2014年都市対抗野球東海地区予選で選手に指示する様子(写真真ん中)  そこから春先の試合では、先制されても後半に巻き返す試合展開ができるようになり、林は手応えを感じ始めたという。選手たちは全体練習後も、自分がこのチームに存在するために、どういう選手になればいいかを意識して、毎日夜遅くまで自主練習に励んだ。それが試合で劣勢に立っていても、後半に巻き返すような粘り強いチームとなったのだ。野球部の変化を知らない人から見れば、冒頭の日本通運戦のサヨナラ勝ちは運が良かったと思う人もいるだろう。だが実際は違う。相手投手を打ち崩せないなら、1球でも多く投げさせて簡単にはアウトにはならない野球。そして例えアウトになっても、選手を次の塁へ進めるようなバッティングをすることで、得点に繋げる野球。これをベンチ含め、全員が意識して実践したことで、相手にプレッシャーを与え相手のミスを誘い出したのだ。まさにこれが、林の目指した勝つチーム作りなのだ。
 昨年の都市対抗野球優勝後も選手は驕ることなく、以前よりも野球に対してひたむきになったと言う。現在では、自ら進んで選手ミーティングをしたり、選手同士で納得いくまで話し合ったりするなど、研究熱心で自ら考える野球をするようになった。林は自分も置いていかれないように成長しなければならないと思うほど、選手一人ひとりの人間としての成長が著しいのだと言う。林が培ってきた勝つチーム作りの上に、選手一人ひとりの成長が積み重なったチームは、これからも飛躍するに違いない。

(文中・敬称略)

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