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活躍する社員

岐阜日野自動車 永井秀昭さん(2013年08月16日)

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岐阜日野自動車 永井秀昭さん Profile

永井 秀昭
岐阜日野自動車 スキークラブ

岩手県出身 29歳 
小学校1年生でスキーを本格的に始め、中学3年生で全国中学校スキー大会で優勝。高校時代はジュニア五輪で2連覇、大学時代には国際大会へも出場した。平成20年に岐阜日野自動車へ入社。昨シーズンはワールドカップで自己最高の8位、世界選手権では5位入賞を果たした。

 冬季スキー競技スポーツの一つであるノルディックスキー・コンバインド(ノルディック複合)は、飛距離を競うスキージャンプと、走力を競うクロスカントリースキーという2つの競技で順位が決まる。
ジャンプでは集中力や瞬発力、クロスカントリーでは戦術や持久力が求められ、ヨーロッパではこの種目の王者を「King of Ski」と呼ぶ。 そんな王者の座を目指して日々努力を重ねるのが、岐阜日野自動車スキークラブに所属する永井だ。今回は、ここ数年で世界という大舞台で着実に結果を出してきた彼の実行力に迫ってみよう。

【どん底から頂点へ】
 永井はスキーが盛んな岩手県八幡平市で生まれ、幼い頃から父親とスキーに親しみながら育った。そして小学校へあがると、地元のスキー少年団に入った。アルペンスキーを選ぶ友だちも多かったが、親の「こっちの方が足が速くなる」という一言でクロスカントリーを選択。足が速いことは、小学校時代にカッコイイ!と言われる大切な要素の一つだったからだ。そして4年生の時にJリーグが開幕すると一大ブームの波に乗り、永井の将来の夢はサッカー選手になった。しかし中学に進学してみたら、男子が入れる部活はスキー、野球、卓球の3つしかない。そこで高校から本格的にサッカーを始めるために、中学校では引き続きスキーで体力作りに努めようと考えた。その中でもジャンプが加わる複合競技を選んだのは、2つ上の兄がやっていたからだという。
 ジャンプの練習は、K点が20mのジャンプ台から始まる。これぐらいではあまり恐怖心はないが、主に中学生の大会で使われる50mともなると、最初はスタート地点のバーからなかなか手を離すことができなくなる。その分、それを振り切って空高く飛翔できた時の爽快感は、格別のものだろう。すぐに永井は、飛ぶ感覚に魅了されていく。通っているのが県内の強豪校だったため、1年生のうちから中高生が対象のジュニアオリンピックにも出場した。ところが大会では飛べず、走れずで、結果はダントツのビリだった。
「皆が拍手しながら僕を待っているような状況でした。恥ずかしくて足がつった振りをしながら、コーチに伴走されてゴール。こんな想いは2度としたくない!あの時強くそう思いましたね」
 この経験が、永井の練習に対する姿勢に大きな変化をもたらすことになる。それまでどこか「やらされ感」を持っていた練習も、自主的に取り組めるように変わった。するとメキメキと頭角を現し、中学3年生の時には全国中学校スキー大会で優勝。その後も、その勢いは止まらなかった。高校1年で全日本の強化指定選手に選ばれると、高2、3年ではかつてビリだったジュニアオリンピックで2連覇を達成。インターハイや全日本選手権でも好成績を残した。

 永井によると、ジャンプ競技では、スタートバーに着く前に今自分の抱えている課題などを頭の中で確認したら、その後は一切何も考えずに急斜面を滑り降りる。そして踏み切り台から勢いよく飛び出し、バランスを保ちながら滑空する。一方後半で行われるクロスカントリーは、他選手との駆け引きと信頼関係が大きく勝敗を左右する。例えば6名ほどの集団で前を追っていると、どうしても先頭で集団を引っ張る選手の負担は、後からついてくる選手に比べて重くなる。そこでトップの選手が「次はお前が前へ出ろ」というような指示を送り、先頭を順番に回していく。ライバル同士が、まるで1つの団結したチームのような動きをするのだ。しかしここでスピードが遅いと思われている選手には、いつまでたっても先頭に立つ順番は回って来ない。集団全体のペースが落ちるからだ。つまり他の選手からの信頼がないと集団の前方のポジションを獲るのが難しく、結果としてスパートをかけて集団を飛び出すことも困難になる。

岐阜日野自動車 永井秀昭さん 【さらに広がる可能性】
 早稲田大学へ進学した永井は、2年生の時に長野で開催されたワールドカップの1つ格下の国際大会にも出場できた。しかし卒業を控える頃になっても、自分がまだ完全燃焼できていないと感じていた。
「今スキーをやめたら後悔すると思いました。しかし複合の選手を受け入れてくれる実業団のチームはほとんどありません。だから就職せず、とりあえずアルバイトをしながらスキーを続けることにしました」
 平成18年、卒業して地元に帰った永井は、体力作りも兼ねて隣村の農家で早朝から17時まで働き、夜に練習に励む生活をスタートさせた。しかし想像以上に労働が占める比重が大きくなり、十分な練習時間を確保することができなくなってしまう。これでは本末転倒だ。永井は8月にアルバイトをやめ、家族に支援してもらいながら、スキー一本の道を選んだ。そして19年、ついに世界選手権という大舞台に立つことになる。
「けが人が出たため、補欠からの繰り上げでしたが、日本代表としてのデビュー戦でした。しかしここで世界トップクラスの選手のスキーを目の当たりにして、自分はとても勝てないと思いました。しかも団体戦だったので、自分が足を引っ張ってしまい、恥ずかしかった。あの中1のビリだった時の心境に、近いものがありました」
 世界とのレベルの差を痛感したシーズンを終えた永井は、春に原因不明の痺れに見舞われ、3週間の検査入院を余儀なくされる。さらに悪いことは重なり、体調不良を理由に、決まりかけていた就職の話も白紙になってしまう。永井は心身ともに苦しんだ。初めて自分の将来に不安を感じ、スキーを諦めるべきかどうか悩んだという。
「そんな時、岐阜日野自動車へ入社して、24年のぎふ清流国体を目指さないか、というオファーをもらいました。嬉しかったと同時に、こんな自分を雇ってくれるところがあるなら、必ず成績を出して恩返ししなくてはいけない!と強く思い、再び奮起して練習に励みました」
 この岐阜日野自動車との縁が、その後の彼の飛翔に大きな追い風となる。痺れも完治し、20年1月に岐阜日野自動車スキークラブの所属となった永井は、同シーズンの最終戦で、元オリンピック選手の森 敏に声を掛けられる。彼は15年に現役を引退後、当時は愛知県の中京大学大学院に在学しながら、スキーのコーチをしていた。それまで試合会場で会うと挨拶を交わす程度の仲だったが、永井が岐阜のチームに入ったことを知り、中京大の練習に誘ってくれたのだ。さっそく永井は、4月に彼のもとを訪れた。
「その頃の僕は技術的に伸び悩んでいて、どれだけ練習しても成績は横ばいでした。しかし森さんの話を聞いたら、自分がやってきたことが真逆だったことがわかったのです。例えば、これまではジャンプする時は力んでいたけれど、それが体の正しい動きを邪魔しているとか。その時、パッと目の前に光が差したような気がしました。まだまだ成長できる!変われるかも!って」
 翌シーズンからの永井の活躍は、目覚ましいものだった。21年から全日本選手権を3連覇したほか、数々の国内大会で優勝を飾った。そして24年のシーズンは、ヨーロッパへ遠征したコンチネンタルカップで、出場した全5戦の最高順位が3位となり、初めてワールドカップへの出場権を得た。そしてそのまま開催国のイタリアへ移動し、2月5日の第14戦で18位という好成績を収め、30位以内の選手に与えられるワールドカップポイントも獲得。休む暇なく帰国し、16日にはぎふ清流国体で優勝。その後、再びワールドカップに参戦した。そして昨シーズンのワールドカップでは、最高順位8位を記録するなど1桁順位を3回獲得するなど安定した成績を残し、さらに25年の3月に行われた世界選手権ではジャンプで12位につけると、クロスカントリーでは順位を上げて銀メダルを争う大集団に加わり、終盤に一時は集団の先頭に立つなど、積極的な走りで5位に食い込んだ。

 来年はソチオリンピックも控える。オリンピックの出場経験はまだないが、メダル獲得の可能性も十分に考えられるところまで迫っている。
「結果を出すために必要なこと、それは全力を出し切って実行すること。そして自分自身を信じることです。試合前、不安になることもあります。だけど自分が信じられないと、周りも信じてくれないと思います。僕は本当に、家族をはじめ多くの人に助けてもらい、今に至ります。だから僕に関わった全ての人にオリンピックでメダルを獲って恩返ししたい。それが僕の使命です」
 この冬、大舞台へ羽ばたく永井に大きな声援を贈りたい。

(文中・敬称略)


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