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西濃運輸 空手道部監督 若井敦子さん(2013年09月06日)

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若井敦子監督 Profile

若井 敦子
西濃運輸 空手道部

岐阜県出身 41歳 
4歳の時に交通事故で重傷を負い、後遺症を克服するために小学1年生で空手を始める。平成9年に国際大会で初優勝。その後前人未到の世界空手道選手権で4連覇を達成し、ギネス世界記録に認定。19年に西濃運輸空手道部監督に就任し、ぎふ清流国体ではチームを優勝へ導いた。


 個々にストレッチを行なっていた選手が道着を整えて正座すると、その場の空気がピンと張り詰める。時刻は午後2時キッカリ。マットが敷き詰められた殺風景 な部屋が、神聖な空手道場に変わった瞬間だった。監督の後ろに目上の者からきちんと整列し、正面を向いて一礼。そして監督が選手の方に向き直り、更に一 礼。練習が始まると強く、しなやかな突きや蹴りを繰り出す選手に号令をかける若井監督の額にも、すぐに汗がにじんだ。
 今回は、選手としてはもちろんのこと、監督としても大きなプレッシャーを背負いながら、確かな成果につなげる若井監督の実行力に迫ってみよう。 

【逃げ道を断って見えたこと】
 若井を説明するのに必ず語られるのが「世界選手権で史上初の4連覇」「ギネス記録に認定」という輝かしい経歴だ。しかし彼女の努力が実を結び、脚光を浴びるまでには、自分との戦いに長い年月が費やされていた。
 若井は4歳の頃、自宅前で暴走したオートバイと正面衝突し、病院へ担ぎ込まれたという。幸い一命は取り留めたものの、全身を強く打撲し、頭蓋骨にはひび。3ヶ月間は寝たきりで、歩くことも出来なかった。事故から4ヵ月後にようやく退院できたものの、抵抗力も平衡感覚も弱くなった幼い体は、偏頭痛や意識障害など辛い後遺症に苦しめられていた。そこで彼女の両親は小学校1年生の時に、体を鍛えさせようと近所の空手道場に通わせることにした。
「空手を始めると友達から珍しがられ、技を見せるとすごい!と注目されました。不自由な体に劣等感を持っていた私は、それだけでとても満足していました」
 そしていつの間にか後遺症を克服。空手と共に成長した若井は大人になり、胸に日の丸を付けたナショナルチーム入りを遠く夢見て、実業団チームで空手に打ち込んだ。しかし大きな大会で、結果を残すことはできなかった。その原因を、勝負に対する執着心を周囲の目ばかり気にして素直に出せずにいたことだと、若井は振り返る。
「最初は体力をつける目的で始めた空手でしたが、次第に試合で勝ちたいと思うようになっていました。しかし一所懸命やっていながらも結果が出せなかったら、周囲からその程度の実力なのかと笑われると思い、わざと必死に取り組まないようなふりをしていました。結局は、負けた時の逃げ道をいつも作っていたのです」
 社会人2年目。学生時代に一緒に空手に打ち込んだ仲間も、次々に競技から離れて行くような時期だった。若井も、結果を全く出せないまま、空手をやめるべきか悩んでいた。ちょうどそんな時、12月に開催された全日本選手権の会場で、憧れの日本代表選手から、良い話があるからと山梨の自宅に遊びに来ないかと誘われた。若井は期待で胸を膨らまし、年末に山梨へ向かった。しかしそこで待っていたのは、意外にも若井へのお説教だった。
「日本代表メンバーに選ばれたいと思っているんだろう?と聞かれたので、私は1度でも代表に選ばれれば、もう空手をやめても惜しくないぐらいだと必死に自分の熱意を伝えました。そうしたら、お前にその資格はない!とぴしゃり。ナショナルチームは世界チャンピオンをつくるところ。だからチームに入ることを目標にしているような意識の低いヤツは来てはいけないと言われ、私は気づきました」
 1泊のつもりで山梨を訪れた若井は、結局3泊もそこにお世話になり、帰る頃にはスッカリ考え方が変わっていた。そして翌年の元日に行なわれた道場の寒稽古の場で、自分は世界チャンピオンになる!と堂々と皆に宣言したのだった。そこには、勝てない時の言い訳を作り、自分を守っていた若井の姿はなかった。目標も、憧れにすぎなかったナショナルチーム入りから、世界一へと引き上げられた。逃げ道を絶った若井は、そこからまさに全身全霊で空手に打ち込んだ。通勤はランニングに変え、机の脚にはチューブを巻き、それを足で引きながら仕事をした。これまで自分が限界だと思っていた練習量を、はるかに超えていた。食事も味を楽しむことはなく、栄養補給の手段となった。睡眠も、息を吸うことでさえ、すべて空手のために行なっているようなものだった。そして4月、新年度のナショナルチームの選考会を迎えた。
「これまで何度も選考会に参加してきたけれど、いつも自信がなく、不安との戦いでした。でもその年は、やれる事はすべてやってきたのだから、どのような結果が出ても、素直に受け入れられると思えました。そうしたら選ばれたんですよ!自信を裏付けるもの、それはこれまでやってきた練習しかないのです」
 突然のチャンピオン宣言から「練習の鬼」と化した若井の姿を目の当たりにして、これまで空手道部に無関心だった職場の人たちの間にも、次第に応援する声が高まってきていた。そしてナショナルチーム入りが決まり、電話でその事を上司に報告すると、若井の耳に受話器を通して、割れんばかりの大歓声が届いた。以前では考えられないことだった。

選手と会話する若井監督  会社へ戻ると、もっと驚くような変化が起きていた。まずは総務課から秘書課への異動。これは人数がすでに足りている部署へ移ることで、より練習に専念できるようにという会社の配慮で、これまで残業を終えてから行なっていた練習を午後から行なえるようになった。そしてコンクリートだった床は板張りに変わり、シャワーや更衣室も新たに設けてくれた。「よく環境が人を作ると言いますよね。でもその環境を作るのは自分で、環境は自分が変わることで変えられることがわかりました。自分の置かれた環境に文句を言うよりも、まずは自分が変わることが大切だと知りました」
 若井はその年から3年後に、ついに世界チャンピオンとなる。そして計11年間、日の丸を胸に付けたナショナルチームのメンバーとして、世界中で活躍を続けた。

【世界一を目指すなら、世界一の練習を】
 平成19年 2年前に空手を引退した若井は、講演活動やイベントへの参加、そしてテレビレポーターなどをしながら、第2の人生を歩んでいた。そんな彼女のもとへ、突然24年に岐阜で行われる国体に向けて、地元選手の強化をして欲しいという依頼が舞い込んだ。引退以来、競技から一切離れていた若井にとって、それはあまりにも荷が重い話だった。
「お断りしようと思っていました。しかし思い返すと私自身、社会人になってからようやく芽がでた選手だったので、今度は私がその恩返しとして社会人で開花する選手を育てる役目を果たす番かもしれない…と思い、決断しました」
そして若井は、ぎふ清流国体に向けて創部された西濃運輸空手道部の監督に就任。2年ぶりに稽古も再開し、指導者としてスキルアップするために、日本体育協会上級コーチの資格も取得した。
 若井はこれまでの自身の経験から、「やれることは全てやった」と思えるような妥協を許さない厳しい練習を選手に課す。日本一を目指すなら日本一の練習が、世界一を目指すなら世界一の練習が必要だと考えるからだ。
「選手にはよく『出来ないのではなく、出来るまでやってないんだ』という言葉を掛けます。私はなかなか諦めませんからね!」
 そういう若井も指導を始めて間もない頃は、なかなか思うような結果を残すことが出来ず、悩んだ時期もあったという。しかし少しずつ選手が監督の想いを理解し、浸透することで、最大の目標だったぎふ清流国体では、部員たちが期待通りに大活躍。

講義をする若井監督 3人が優勝、準優勝と5位入賞が1人ずつと、出場した選手全員が入賞し、競技別男女総合優勝と同女子総合優勝をするなど、天皇杯・皇后杯の獲得に大きく貢献した。国体後の活動が決まっていなかった西濃運輸空手道部は、今年の1月に正式な西濃運輸の部として活動を継続していくことが決まり、新しい組織として再スター トを切った。
「勝つことは、楽じゃないですよね。なかなか勝てません。だからこそ、皆が勝ちたいと思っている。誰もが勝てるなら魅力はありません。1番は一人しかなれない。だからその頂点を目指すことに意味があるのです」
 選手として、そして監督として、確かな成果を残してきた若井の強さの秘訣は、自ら逃げ道を絶ち、やれることは全てやっておくという厳しい実行力に他ならない。


(文中・敬称略)

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