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トヨタカローラ岐阜 海渕 萌さん(2013年12月18日)

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トヨタカローラ岐阜 海渕 萌さん Profile

海渕 萌
トヨタカローラ岐阜

東京都出身 27歳
3歳からカヌーに親しむ。小学6年生の時に全国少年少女カヌー大会で優勝し、中学2年でジュニアの日本代表選手に選ばれる。その後、国内大会で好成績を残し、平成24年にシニアの日本代表に。昨年開催されたロンドン五輪にも出場を果たした。


 カヌーのスラローム競技とは、流れのある川に不規則に設置された20から25のゲートを、上流のスタート地点から順番に通過して約300メートル下流のゴールを目指しタイムを競う。ゲートは上流から下流へ下るだけでなく、下流から上流へ遡るものもあり、触れてしまったり通れないとペナルティが加算される。人が立っていられないほどの流れの中で行われる難しい種目だが、激流であればあるほど、水から力をもらって好成績を残す選手がいる。それが昨年開催されたロンドン五輪に日本代表として出場した、トヨタカローラ岐阜に所属する海渕萌だ。 

【カヌーが教えてくれた楽しさ】
 海渕がカヌーを始めたのは、彼女が3歳の頃だ。両親がアウトドアを積極的に取り入れた幼稚園の経営をしていたため、海渕も他の園児とともに、近所の流れの穏やかな相模川にカヌーを浮かべていたのだ。そんな遊びの1つだったカヌーが、特別な存在となったのは小学校3年生の頃のこと。父親とともにカヌーの世界選手権のビデオを観ていた時のことだった。そこには急流の中、とても小柄な女性が見事に流れを操り、金メダルを獲得する様子が映し出されていた。
「カヌーは知っていましたが、激流の中で勇ましくタイムを競うスラロームを初めて知り、とてもワクワクしました。その場で父に、私もこれをやってみたい!と伝えました」
さっそく次の週末、奥多摩にあるスラロームのコースへ連れて行ってもらった海渕は、間近で日本のトップ選手の姿を見て感動する。そして翌年から流れのない湖で行われる小学生を対象としたカヌーの全国大会にも参加。6年生の時には2種目で優勝し、ますます海渕はカヌーにのめり込んでいく。
 中学生になると、父親と二人三脚での猛練習が始まった。授業後は校門の前で待っている車に乗り込み、相模川へ直行。2時間カヌーを漕いだ後、さらに家に帰ってから筋トレを1時間。大雨で川が増水している時と雷の日以外は、毎日続けられた。しかし初めて挑戦したスラローム競技では、最下位となってしまう。海渕は週末にしか奥多摩でスラロームの練習できない上に、父親も競技経験はなかったからだ。ひたすら2人で試行錯誤を繰り返し、その成果を試合本番で確かめていく日々だった。それでも2年生になると徐々に大会で上位に食い込めるようになり、ジュニアの日本代表に選ばれるまで成長をする。そして中学3年生の時に出場したジャパンカップでは3位となり、大人に交じって初の表彰台も経験した。
「その時は、すごい激流でした。トップ選手でもミスを連発する中、自分は流れの読みが当たりました。巧く流れを掴めると、行ける!というのがわかるんです」
ゲートの位置は競技当日に発表され、それ以降は一切そのコースでは練習ができない。そんなぶっつけ本番で臨むレースでは、流れとの一体感がなければ、どれだけ練習しても力を発揮することはできないのだ。
 高校生になると、年に2、3回はジャパンカップの表彰台に立てるほどの実力を備えた海渕だったが、一方でカヌーと勉強の両立に悩むようにもなった。試合が近づくと、試験の前日であろうと、夜遅くまで相模川にカヌーを浮かべ、懐中電灯で照らしながら練習に励まなくてはいけない。進学校だったことも、余計に彼女の焦りを募らせた。転校を考えたり、いっその事すべてを投げ出したくなるような衝動にも駆られたという。
「カヌーに乗る前は、本当に嫌だなと思う日もあります。でも乗ってしまえば不思議と楽しい気持ちになれるのです。こうしている時が、一番自分が自分らしくいられる瞬間だということに気づいたら、吹っ切れました。私はカヌーが好きだという気持ちは、誰にも負けません」
 そして高校2年の時、日本代表選手を輩出している秋田のクラブチームの監督から、うちへ来ないかと声を掛けられる。翌年には、アテネ五輪の代表選考会が控えていた。海渕はこの誘いに賭けてみようと決心する。そしてカヌーの大会や合宿で知り合った友人宅に居候をする形で、3学期から秋田での新生活をスタートさせた。

競技中の海渕選手  「秋田には、お手本となる人が多くいました。しかし雪で練習場まで行く事が出来ず、練習回数が大幅に減ってしまったのです。そのためか五輪につながる4月の大事な大会で、大失敗をしてしまいました」
ア テネ五輪に出場する夢は絶たれてしまったが、海渕はくじけなかった。心配を掛けている家族や、協力してくれる秋田の人たちのためにも、どうしても結果を残 したかったのだ。そして気持ちを切り替えて臨んだジュニアの世界選手権では過去最高の15位に入ると、続く国内大会ではNHK杯で3位、5戦あるジャパン カップでは3位、2位、優勝と素晴らしい成績を修めた。




【カヌーが好きだという強さ】
 幼稚園を経営する両親の元で育った海渕は、小さい頃から自分が跡継だという意識があった。そのためカヌーを優先させるのではなく、必要な知識を学べる大学へ進学しようと思っていた。ところが今度は、日本で唯一スラローム部がある駿河台大学の監督から誘いを受ける。悩んだ末、まだ五輪への夢を捨て切れないと思った海渕は、同大学への進学を決めた。しかし10名いる部員の中で女性は海渕だけ。普段の練習は池で行うため、全くチームメイトに歯が立たず、悩む彼女のレースタイムは低迷した。
「同じ東京都にライバルがいました。3年生の時、私は北京五輪代表選考会で彼女に負けてしまいました。4年越しの夢が破れ、翌年に北京で活躍する彼女の姿を見るのは、本当に辛いものでした」
競技からの引退も覚悟した海渕は、実家の幼稚園を継ぐために、もう一度大学へ入り直そうと考えていた。そんな時、今度海渕に声を掛けたのは、4年後に自県での国体を控えた岐阜県だった。
「そこには競技に専念できる環境がありました。それならば次こそは五輪に出場するため、時間もお金も全てを賭けて、4年間できる限りのことをしようと心に決めました」
そして入社直後に行われた平成21年4月のジャパンカップ第1戦で優勝を勝ち取ると、初めて日本代表選手に選出されることになる。そしてワールドカップに参戦し、世界に戦いを挑んだ。しかし壁は厚い。海渕は壁を乗り越えるために人とは違う、大きな行動を起こす必要性を強く感じた。そこで世界選手権で仲良くなったイギリスの選手に合宿所に泊めて欲しいと頼み、翌年に単身で渡英。現地のクラブチームの練習にも入れてもらった。この思い切った挑戦が、海渕を大きく成長させる。翌23年4月のジャパンカップで優勝。世界選手権に出場できる3名に選ばれ、次は9月の世界選手権で国別15位以内に入れば、ロンドン五輪への切符を手にできるところまで漕ぎ着けた。
「ここから、調子が良くありませんでした。しかし合宿中は、ライバル3人は朝から晩まで、一緒に行動します。常に比較される環境の中、コーチにも私が一番ダメだと言われ、もう心が折れそうでした」
そして世界選手権で海渕は、3人の中で最も悪い結果を出す。しかし誰も基準をクリアせず、五輪代表の座は次のアジア選手権へ持ち越された。
「まだ私にも可能性が残されました。私の強みは、カヌーが好だという気持ち。そう自分に言い聞かせ、諦めず頑張りました」
その結果、超激流の難コースを制し、日本人最高の3位となって五輪の代表権を獲得したのは海渕だった。試合当日は熱が40度もあって意識が朦朧としていたというから、さらに驚きだ。応援してくれた県や会社、そして家族のことを考えると、感謝の気持ちがこみ上げた。

競技中の海渕選手 その結果、超激流の難コースを制し、日本人最高の3位となって五輪の代表権を獲得したのは海渕だった。試合当日は熱が40度もあって意識が朦朧としていたというから、さらに驚きだ。応援してくれた県や会社、そして家族のことを考えると、感謝の気持ちがこみ上げた。昨年のロンドン五輪で海渕は19位となり、予選を突破することはできなかった。彼女はあまり語らないが、実は1月のトレーニング中に、足を骨折していた。カヌーは腕で漕ぐとはいえ、やはり影響は大きかった。
「やれる事はすべてやりましたが、ベストな状態ではありませんでした。だから次の五輪も目指します」
どんなに荒波が海渕を襲っても、見事なパドル捌きで水の力を味方につけて、彼女の快進撃はこれからも続く。


(文中・敬称略)

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