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中日ドラゴンズ 藤澤拓斗さん(2014年03月18日)

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中日ドラゴンズ 藤澤拓斗さん Profile

藤澤拓斗
中日ドラゴンズ

大分県出身 23歳 
小学校1年生から野球を始め、6年生の時にピッチャーとして出場した県大会で優勝し、ベストナインにも選ばれる。中学校の野球部を経て高校からは、バッティングに専念。西濃運輸へ入社後は、4番や1番打者としてチームを牽引して、ドラフト会議で中日ドラゴンズより6位指名された。



 身長は174cmで体重は82kg。野球選手としては、決して目を引くような体格ではない。しかし球に向かって最短距離で振り出されるバットの軌道には無駄が一切無く、その美しいスイングは人々の目を奪う。ショートの頭を越えた低い打球が左中間を抜ける間に、彼は2塁ベースを蹴り、3塁まで到達する。“ガッツポーズ!”がっしりしているが、意外にも俊足の持ち主。チャンスメーカーとして、チームに勝利を呼び込んできた。彼が5年間の西濃運輸での野球生活を経て、昨年のドラフト会議で中日ドラゴンズから指名を受けた藤澤拓斗だ。


【持っていた野球のセンス】
 野球が好きなお父さんの影響で、幼稚園の頃から2つ年上の兄の練習について行っていたという藤澤は、当たり前のように小学校入学と同時に野球チームに加入した。本人曰く「弱く、人数の少なかったチームだったから」だそうだが、2年生の頃から一人前に試合に出ていたというから驚きだ。しかしその弱かったチームは、藤澤兄弟が4年生と6年生の時を境に一変することになる。彼らのお父さんが監督に就任し、スパルタ特訓が始まったからだ。試合中でも容赦なく選手を叱りつける新監督は、特に自分の息子には厳しかった。お陰で2年という短い期間で県大会で優勝できるほどのチームに成長したが、兄が小学校を卒業してチームを抜けた後、更に監督からの集中砲火を浴びていた藤澤は、やらされ感いっぱいで、正直あまり野球が好きではなかったという。
 すでに小学校時代に大分県内では有名な投手だった藤澤は、進学した地元の中学校でも野球部に入り、ピッチャーやショートとして活躍する。以前に比べると練習も厳しくなく、野球を存分に楽しめたそうだが、周りの友達と同じように高校へは進学せず、就職しようと考えていた。
「勉強は全くしていなかったので、まともな高校へ進学できる生徒じゃなかったんですよ。そうしたら兄が所属する高校の野球部の監督が、進学を勧めてくれました。あの時誘ってもらわなかったら、きっと今とは別の人生だったんじゃないかと思います」
 こうして横浜DeNAベイスターズの山口俊や、埼玉西武ライオンズの脇谷亮太らを輩出する県内の強豪校へ進んだ藤澤は、高校ではサードに定着することになる。これまでピッチャーとして脚光を集める一方で、打順も小学校から高校まで3、4、5番と常にクリーンナップで起用されてきていた。監督が藤澤に期待していたのは、バッターとしての素質だった。
「打席に入ってピッチャーの指先のあたりをぼんやり見ていると、指の角度から真っ直ぐだとか変化球だとかがわかるので、タイミングを合わせてバットを振るだけです。誰に教わった訳でもなく、なんとなくやっていました」
日本選手権での藤澤さん 凡人には真似しようにもできない境地だが、高校時代にほとんど三振をしていないと聞くと、その才能を認めざるを得ない。厳しい練習でさらにバッティングに磨きをかけた藤澤は、高校2年生の冬頃から、いくつかの大学や地元の社会人チームから誘いがあったという。しかし野球漬けの生活から抜け出したいという想いもあって、この先野球を続けるかどうか迷っていた。その結論は、進路を決めなくてはいけない3年の夏になっても出ずにいた。
「練習はもうしたくないと思っていましたが、友だちや先輩、それに両親が、できるなら野球を続けて欲しいと言っていました。その気持ちに応えようかと気持ちが傾いた時に、タイミングよく西濃運輸から声を掛けてもらいました。東海地区はレベルが高いと聞いていたので、野球を続けるのならここにしよう!と決心しました」

【掴んだ野球の技術】
 1年目からレギュラーをとってやろう!と鼻息荒く大垣へやってきた藤澤は、練習初日から周囲との実力の差を思い知らされることとなる。まずはノックに入った時の事だ。藤澤の動きを見て、ピッチャーの佐伯が心配そうに声を掛けてくれたという。
「お前、大丈夫か?ケガをしているのなら正直に言えよと…。もちろんコンディションは万全でしたが、どこか痛めて無理をしているのではないかと思われるぐらい、周囲とのレベルの差は明らかでした。それまで自分から守備練習なんてしたこともなく、時間があればバッティング練習ばかり。とても後悔しました」
 しかもその自慢のバッティングでさえも、チーム内では沈黙した。社会人野球では球種が増えたことと、球のキレが格段に鋭くなったことで、思うようにバットに当てることができなくなった。小学校から常に主力としてチームを引っ張ってきた藤澤にとって、試合に出られない状況は悔しいとしか言いようがなかった。
「自分はまず、バッティングで目立たないと生き残れないと思いました。それと同時に、守備も巧くならないと試合には出られません。毎日コーチに付き合ってもらいながら、グラブさばきや球への入り方など1から守備を教えてもらいました」
 結論から言えば、彼は「やればできる男」だったのだろう。闘志に火が付き、野球に対する姿勢がガラリと変わると、徐々にバッティングも守備も周りのレベルに追いつき始めた。そして2年目になると、まだ守備では使ってもらえなかったが、指名打者としてバッターボックスに立てるようになる。そして3年目に入ると、ついに6番サードとしてスタメン入りを果たす。
「高卒の選手の場合、3年目からドラフト会議の対象となります。小学生の頃の夢はプロ野球選手でした。それ以降は全然現実的ではありませんでしたが、4年目は前年以上にチームに貢献できたので、これはもしかして!と本気でプロ行きを考え始めました」
 この年、14年ぶりに西濃運輸からプロ野球選手が誕生した。仲間が掴んだ栄光を共に喜びながらも、悔しい気持ちも胸の奥に広がった。そして迎えた5年目のシーズン、林監督は藤澤に4番を託した。
「チーム的にも、2年ぶりの都市対抗本大会出場をかけた大事なシーズンだったので必死でした。しかし気負い過ぎていたのかもしれません。4番として自分のバッティングが全然できませんでした。苦しかったです」
 後に記者会見で林監督は、まだ若いのに4番を打たせて、荷が重たく、かわいそうだったと当時の様子を振り返った。そして予選敗退後にはチームの再編が行なわれ、藤澤は1番となる。昔から1番バッターはやってみたいと思っていたが、打てずに回されたのは本意ではなかった。しかし彼はマイナスの気持ちをエネルギーに変えて、新たに1番藤澤を確立させようと奮起した。そして持ち前のバッティングと俊足を活かし、何度もチームにチャンスを呼び込んだ。西濃運輸野球部には、高山大会優勝、日本選手権大会代表権獲得と、本来の元気が戻ってきた。
「シーズンを通して、大きな活躍ができた訳ではなかったので、今年も指名はないだろうと諦めていました。しかし監督から『指名の話があるが、どうしたい?』と聞かれました。僕は勝負したいと答えたら、『お前はこの1年、4番としても1番としてもしっかりやってくれた。指名されたら行ってこい』と。それから何をしていても、ドラフトの事が頭から離れなかったですね」
期待する自分、それを押さえ込もうとする自分。でも期待する自分…。その繰り返しが、中日ドラゴンズ6位指名選手が発表されるまで延々と続いた。

中日ドラゴンズのスカウトと  本人も周囲も驚きだったのが、指名挨拶の時にスカウト部長が、サードではなく難易度の高いセカンドでの起用を考えていると発言したことだった。自分の中で一生守備は自信が持てないと思っていたが、いつの間にかプロからも評価されるレベルに達していたのだ。
「西濃運輸に来て、練習に対する意識が変わりました。また多くの人がアドバイスをくれたり、練習に付き合ったりしてくれました。最高の仲間がいるこのチームだったから、自分はここまで成長できました。絶対にプロでも活躍し、藤澤拓斗はここでやっているぞ!というのを見せることで、皆に恩返ししたいです」


(文中・敬称略)

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