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活躍する社員

西濃運輸空手道部 新馬場一世さん(2014年06月18日)

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中日ドラゴンズ 藤澤拓斗さん Profile

新馬場 一世
西濃運輸 空手道部(人事部人事課)

兵庫県出身 25歳 
3歳から空手を始め、高校2、3年でインターハイを連覇。大学2年生以来、ナショナルチームのメンバーとして活躍している。2012年のぎふ国体では優勝を勝ち取り、県勢の天皇杯獲得に大きく貢献。2013年からは国際大会にも積極的に挑戦し優勝を修めるなど、世界から注目されている。



 空手道の「形競技」は、流派で継承されている形を演武し、その錬度、正確さ、緩急、その他の諸要素を総合的に競う。大会はトーナメント方式で行われ、勝敗は審判の旗判定(多数決)によって決まる。人によって、評価・減点する点が多少異なることは避けられない。ましてや海外での試合ともなると、そのズレが大きくなりがちだ。だからこそ圧倒的に相手より良い形を打てないと、勝ち続けることは難しい。そんな中、昨年度から国内大会のみならず、空手道の国際大会で注目されつつある選手が新馬場一世だ。


まさかの優勝から開けた道】
  新馬場は、物心ついた時にはすでに空手に親しんでいた。母親と姉について道場に通い始めたのは、3歳の頃だったらしい。小学生の頃から、流派の大会では常に上位に入賞し、6年生の時に出場した全国大会でも形で3位になった。
「中学生の時は、担任の先生に空手道部を作って欲しいと訴えるぐらい空手に熱中していました。どうしても全国中学生空手道選抜大会で優勝したかった。学校が終わると毎日道場へ通っていましたし、家でも空手のビデオを観ながら、有名な形選手の演武を研究していました」
 それでも新馬場は、中学3年生の時の3位が最高順位で、優勝には一歩及ばなかった。そこで彼は、高校からは「組手競技」で優勝を目指そうと、組手の強豪校である大阪の浪速高校へ進学した。しかし周りは、組手のエリート選手ばかり。これまで形をメインでやってきた新馬場は、レギュラーになることすらできなかった。そんな彼を見て、2年生の時に監督から、インターハイには形で出場してみたらどうだと言われる。新馬場は逆らう事もできず、嫌々ながらも監督の言葉に従って試合に出た。するとどうだろう。以前ほど形の練習をしていなかったのにもかかわらず予選を3位で通過し、そのまま本番では優勝をしてしまった。中学校の頃はどれだけ練習しても一度として頂点に立つことができなかったのに、この時はわずか数週間の練習で、トップに登りつめてしまったのだ。周囲も本人も驚く結果だったが、それは決してまぐれなんかではなかった。新馬場は翌年の春の選抜でも形で優勝、連覇のプレッシャーが掛かる3年生のインターハイでも、優勝を成し遂げた。
「自分でもなぜ優勝できたのか、分かりませんでした。もしかしたら組手の動きが、形に活きたのかもしれません。でもこの時の優勝がなかったら、今の僕はいなかったと思います」
日本選手権での藤澤さん この素晴らしい成績を買われ、京都産業大学の空手道部へ進んだ新馬場は、2年生の時には、日本代表を意味するナショナルチーム(全日本強化選手)の形のメンバーにも選ばれた。空手の場合、最高峰である世界選手権に出場できるのは、各国とも各種目補欠なしの1名限り。その1名はナショナルチームのメンバーから選ばれるため、新馬場の目の前にも険しいながらも、世界チャンピオンへの道が開かれたことになった。
「ナショナルチームに入ってからは、日本代表選手として恥ずかしくない試合をしなくてはいけないと使命感やプレッシャーを強く感じるようになりました。だからメンバーではない選手に負けると、とても辛かったですね。これまで何度も空手をやめたいと思ったことがあります。練習も楽しいとは思えません。だけど高校時代に思いがけず優勝できた経験から、何事も根気よく続けていれば、いい事があるはずだと考えるようにしています」

【葛藤の末に開けた道】
 大学の卒業が間近に迫った頃、新馬場は進路を決めかねていた。空手の実業団チームを持つ企業は少ない。卒業と同時に、空手から離れていく仲間も多かった。そんな時に新馬場の目の前に現れたのは、西濃運輸空手道部の若井敦子監督だった。何を隠そう彼女こそ、新馬場が小さい頃に何度も見ていた空手のビデオの中で演武する世界的な有名選手だった。
「幼い頃、大会会場で握手をしてもらったことがありましたが、大人になってからは、話しかけることもできない雲の上の人でした。そんな人が、大学まで自分のスカウトにやってきたのには、本当に驚きました」
 そもそも西濃運輸の空手道部は、ぎふ清流国体で優勝するために設立された部。そんな重い至上命題を抱えた若井監督が白羽の矢を立てたのが、新馬場だったのだ。こうして2012年4月、国体を秋に控えた大事な年に、新馬場は西濃運輸に入社し、空手道部のメンバーとなった。
 若井監督の指導方法は、これまで指導を受けてきた先生とは大きく異なっていた。監督自身の世界選手権4連覇などの輝かしい戦績に裏打ちされた勝つためのノウハウは、これまで誰も教えてくれないことだった。また試合に臨む選手の立場を十分理解したアドバイスは、どれも的確だった。しかし国体は半年後に迫っていたため、監督もこれまでやってきた新馬場の形を大幅に崩す事は危険だと判断し、修正は小さなものに留めた。それでも新馬場は、できる限り監督の指示に従い演武することで、大きなプレッシャーにも打ち勝って岐阜県に優勝をもたらした。彼にとって、国体優勝は初めてのことでもあった。
 「国体が終わった後は、しばらく時間にゆとりがあったので、本格的に自分の形を見直すことになりました。しかし3歳からやってきて染み付いている自分の形を崩すのは、簡単なことではありません。怖さもあります。それなりの成績も残してきていたので、今までの形も間違いではないという思いもあり、葛藤がありました」
 しかし新馬場は、今後大きくジャンプアップするためにも、勇気を持って若井監督の指導を全面的に受け入れる覚悟を決めた。
 それから1年後の昨年9月、新馬場はドイツで開催されたKARATE-1プレミアリーグの試合会場にいた。新馬場から繰り出される技は、以前のような上半身の筋力に任せたものから、腰の動きなど下半身の力を利用した技へ大きく変わっていた。
「僕はもともと海外の試合に積極的に出るタイプではありませんでした。世界で戦っていける自信も持っていなかった。だけど若井監督が、新馬場は世界を目指す選手だと言って、背中を強く押してくれました」
  ドイツ大会でプレミアリーグ初出場ながら見事準優勝を果たした新馬場は、今年の1月には同リーグのフランス大会にも参戦。準決勝で世界ランク2位の地元フランスの選手を破ると、その勢いのまま決勝戦ではスペインの選手を負かして初優勝を収めた。
「自分の目標を世界チャンピオンに設定した事で、急成長できたと思っています。国際大会に出るようになって自分の空手も変わりましたし、考え方も変わり、以前よりもポジティブに物事をとらえられるようになりました。今ではだいぶ自信も持てるようになりました」 

中日ドラゴンズのスカウトと  前述のように、空手の世界選手権に出場できるのは、1名限り。そして今年の11月には、2年に一度の世界選手権が開催される。平成26年度には、新馬場を含め5名の形選手がナショナルチームメンバーに選ばれた。まずはこの5名の頂点に立たないことには、世界チャンピオンへの挑戦権が与えられない。
「フランスで優勝できたことは、とても良いアピールになりました。あとは、6月のプレミアリーグインドネシア大会や8月の沖縄大会などで良い成績を残す事が大切になってきます。ここまできたら、目標は世界選手権に出場し、優勝することです」
  今後の新馬場一世の活躍から、ひと時も目が離せない。




(文中・敬称略)

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