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活躍する社員

大垣ミナモソフトボールクラブ監督 溝江香澄さん(2017年03月17日)

Profile

溝江 香澄
大垣ミナモソフトボールクラブ監督

(西濃運輸人事部人事課)

青森県出身
高校からソフトボールを始め、実業団の強豪日立ソフトウェアではセカンドとして活躍。2008年、12年には1部リーグベストナインを受賞。10年世界選手権では日本代表として銀メダル獲得に貢献した。17年より大垣ミナモの監督に就任、チームの1部昇格・定着を目指す。




【私を導いた「縁」

 「小さい頃は、ノルディック複合の選手だった父の影響や、学校体育でスキーの授業がある土地柄もあって、アルペンスキーの選手でした」

 小学校3年生から地元のスキークラブに入り、青森県では常に上位。負けず嫌いな性格で、”自分がやると決めた道は最後まできっちりやって結果を出し、結果で黙らせる”そんな子供だったそうだ。持ち前の身体能力と性格で、中学3年生の時には、全国中学校総合体育大会で日本一にも登り詰めた。

 そんなアルペンスキーヤーとして有望だった溝江がソフトボールを始めたきっかけは「縁」だった。

「2000年のシドニーオリンピックで、ソフトボール日本代表が銀メダルを獲得した試合をテレビで見ていました。主力の斎藤選手が弘前出身だと解説があって、その瞬間に同郷であることにとても親しみを感じました。同時に私にもできるんじゃないかと思いました」

 身近な存在に影響されやすい(笑)と溝江。このことがソフトボールの道を選ぶきっかけとなった。やると決めたら決断は早く、スキーの特待生として複数の高校からオファーを受けていたにもかかわらず、全て断りソフトの道に進むことを選んだそうだ。

 高校は青森県でソフトボールNO.1の八戸聖ウルスラ学院を志望した。結果的にソフトボール経験のない彼女がソフトボールの特待生で入学することになるのだが、それも「縁」がもたらしてくれた。地元弘前の塾で模試を受けた際、ほとんどの学生が弘前市内の高校を進学先に選ぶ中、溝江は八戸にある聖ウルスラ学院を希望していた。そこに興味を持った塾長が彼女に志望理由を聞き、知り合いの同校の先生にぜひスカウトしてみてはと声を掛けてくれたのだ。弘前まで視察に来てもらって、その後はトントン拍子で入学が決まった。

「最初は、中学校からソフトボールをやってきた他の選手と比べ差がありました。それでも、これは両親に感謝しているのですが、身体能力は高かったので、ある程度のことはすぐにできるようになりました。また下半身が強く、足も速かったんです」

 アルペンスキーで鍛えた足腰が、ソフトボール選手としての溝江の武器になったという。それを買われ1年生からレギュラーに選ばれたそうだ。2年生からは1番・ショートが定位置になり、足を活かしたセーフティバントで塁に出て、すかさず盗塁、クリーンアップの打撃で本塁へ帰還するのが役割になった。インターハイでベスト16に入るなど活躍していた溝江は、卒業後も実業団でソフトボールを続けたいと考えるようになっていた。

「日立ソフトウェアに入社できたのも縁だったんです。私がソフトボールを始めるきっかけになった斎藤選手の所属していた日立ソフトウェアの監督が声を掛けてくれたんです」

 休暇で弘前に帰っていた斎藤選手が地元の新聞でインターハイに出場する溝江の記事が載っているのを見て興味を持ち、監督にインターハイでの溝江の視察を依頼していたのだ。試合後「日立からスカウトがあったぞ」と高校の監督から告げられて、迷うことなく「行きたいです!」と返事をし、晴れて入社することになった。

 当時、日立には日本代表のショートを務める西山選手が在籍していた。そのため溝江はセカンドにコンバートされた。勝手が違うポジションに最初は大変戸惑ったという。また実業団のトップレベルは、高校とは比較にならない程スピードが速く、サインプレーが綿密で、判断・セオリーなどがハイレベル。どう動いていいのか判断できず、毎日怒られていたそうだ。

「負けず嫌いな分悔しさも強かったですが、それ以上に差が歴然としすぎてメンタルはズタズタでした。高校ではやってこれたが、経験が不足していて、本当の意味でのソフトボールの土台がなかったことを痛感しました。辛くて、逃げたい毎日でした。辞めることはすぐにできたけど、スポーツで学び成長してきた人生、簡単に諦めていいのかと悩みました」

 苦しい日々を過ごした溝江だったが、自分で決めた道で成し遂げたいという信条と、自分に注意した先輩に、結果でぎゃふんと言わせたい負けず嫌いな性格が、辞めることを踏み止まらせてくれたという。

「実業団の選手として活躍を実感できるようになったのは、5年目の2008年頃、キャプテン代理を任されるようになってからでした。自分のことだけじゃなく、周りも見ないといけない立場になり、責任が増して、チームを引っ張っていく自覚が芽生えました。意識が変わり、それが結果につながりました」

 サヨナラホームランや試合を決める得点を挙げるなど、チームの主軸として貢献できていることが実感できるシーズンを送ることができ、その年の1部リーグベストナインにも選ばれ、ようやくスタートラインに立てたと思えた。その後2010年の世界選手権では日本代表として活躍。8年目・9年目には正式に日立のキャプテンに就任し、チームを牽引した。2012年には2度目のベストナインにも選ばれた。


【競技者から指導者へ

都市対抗野球本大会決勝戦では二塁を踏ませない気迫の投球を見せた佐伯投手 キャプテンとしてチームを牽引してきた溝江は、チームを引っ張っている責任感がプレーを続けるモチベーションになっていたという。しかし日立では2年でキャプテンが変わるため、10年目はその職を降りることが分かっていた。

「一選手に戻ることになると考え始めた頃から、モチベーションを維持できなくなっていました。またキャプテンという立場で選手一人ひとりに声を掛け、話を聞き、面倒を見ていくうちに『これが合っている、やりたいのはこれ』と思うようになっていました」

 その頃には競技する気持ちと指導する気持ちが逆転していたのだ。元来決断の早かった溝江は9年目でスッパリと競技者を引退することを決め、指導者の道を進むことを選んだ。引退後はすぐに、楽天イーグルスが運営しているソフトボールスクールのコーチとして指導者の道をスタートすることになった。やはり人に教えるのは面白かったという。

「自分の感覚を噛み砕き、どう伝えるか、一人ひとり捉え方が違う生徒達を相手にすることで、指導の仕方を工夫したり、なるべく平等になるよう時間配分を考えたり、モチベーションが上がるよう上達を実感してもらうためにはどうしたらいいかを考えたりと、伝え方・教え方を色々学びました」

 ソフトボールスクールのコーチになって2年が経つ頃、公認コーチの指導者資格を取るため、溝江は練習に参加する。その会場で偶然会ったのが、顔見知りだった大垣ミナモソフトボールクラブの部長だった。これが「縁」となり、部長から監督にならないかと電話で誘われたそうだ。

「スクールに思い入れがあり、最初は迷いました。ただ指導者として上を目指したい気持ちもありましたし、2部の監督を経験してから、ステップアップを目指してはと大垣ミナモの部長が言ってくれたことも大きかった」

 大垣ミナモの監督になって1ヶ月、選手ともコミュニケーションが取れるようになってきたという。何を考えて、どんな技術を持っていて、何に悩み、どうなりたいか、具体的な話ができるようになってきた。それと同時に1部と2部の違いも見えてきたようだ。

「ものの考え方、言われたことに対しての捉え方、そこに少し差があると感じます。これまで1部昇格にあと一歩、何かが足りなかった。それを変えようとなったら、昇格戦を勝ちきろうと思ったら、最後に重要なのはメンタルです。そこを鍛えていきたい」

 ただ練習した、メニューをこなした、だから頑張ったという一日ではなく、メニューの中で自分が何をしたいのか、何を伝えたいのか、自分の考えを具体的に持ち、これだけは!というものをやりきる毎日の練習を、選手に求めていくという。自分のプランを立て逆算し、目的意識を持って取り組み、練習後に振り返る時間をつくる習慣が大事だと考えているそうだ。

 とはいえ選手と監督に温度差があってもいけない。それぞれが同じ方向を見ているかを大切にしながら、1部昇格はあくまで通過点、1部に定着するための指導をしていくという。そんな溝江の指導に「今までと違い、真新しい」という声を選手から聞いた。

 2017年の2部リーグホープセクションの開幕は4月22日。溝江が牽引する大垣ミナモソフトボールクラブがどんな試合を見せてくれるのか、今から待ち遠しい。


(文中・敬称略)

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