
活躍する社員
西濃運輸空手道部 時岡由佳さん(2014年12月18日)
Profile
時岡 由佳
西濃運輸 空手道部(セイノーエンジニアリング)
大阪府出身 30歳
小学校2年生から空手を始め、高校2年生でインターハイ優勝。3年生でもインターハイを連覇するとともに、アジアジュニア&カデット空手道選手権大会でも優勝。翌年は世界ジュニア&カデット空手道選手権大会でも優勝。西濃運輸入社後は、国体をはじめ多くの大会で活躍中。
身長153cm。小柄な武道家から繰り出される技の数々は、キレがあり細部まで正確だ。西濃運輸空手道部に初めて部員が入部した年、彼女は唯一の形の選手としてメンバーに加わった。それ以降、常に同部の女子形の種目を引っ張っている。
大学卒業後、一度は空手の道を諦めかけたこともあったという。しかし活躍の場を岐阜に移した後は、10年以上前の自身最高成績を追い抜く勢いで成長を続ける。そんな時岡に、今回は話を聞いた。
【地元での活躍】
時岡が空手を始めるきっかけとなったのは、小学校に上がったばかりの2つ上の兄が空手を習いたいと言い出したことだった。マリンスポーツを好み、武道とは縁のなかった父は、すぐには認めず、本当にやりたいなら1年後にもう一回言ってくるよう伝えた。そして2年生になり、彼はようやく近所の集会所でやっていた空手道場へ通い始めた。お兄ちゃん子だった時岡は、道場で練習に励む兄の姿を外から眺めたりしていたという。
「幼い頃の私はX脚がひどく、親は医者から何かスポーツをさせるよう勧められていたようです。そこで兄が始めたのと同じ小学2年になった時、ついでに私も週に2回、空手道場に通うようになりました。同じ学年の女の子もいましたし、先輩のお兄さんやお姉さんに可愛がってもらえたので、行くのが楽しいという感じでした」
学年が上がるにつれ、徐々に流派の全国大会でも上位入賞を果たすようになった時岡は、中学生になると流派の垣根なく競う全国中学生空手道選手権大会に出場した。
「うちの道場から全中に出場したのは、私が初めてでした。簡単に決勝まで行けるだろうと思っていたのに、まさかの予選落ち。私も引率してくれた道場の先生も、レベルの違いに衝撃を受けました」
これまでの練習をしていても到底勝ち目はない。それ以降、時岡は本部道場にも通い始め、週に5日も空手に励む生活がスタートした。目指すは予選突破。それだけを目標に、ひたすら予選で打つ指定形を練習し続けた。
2年目の全中では、時岡は渾身の演武で予選を勝ち抜け、本戦出場の16人に残った。しかしここで新たな問題が浮上した。実は予選突破しか考えていなかったため、次の準決勝で打つ自由形を準備していなかったのだ。仕方なく時岡は、予選と同じ指定形でコートに立った。するとどうだろう。この奇策も功を奏し、決勝へ進む8人に残ってしまったのだ。 「みんな大喜びでしたけれど、次はどうしよう!と慌てました。救いだったのは、決勝は翌日だったことです。その晩は会場が閉まるまで、必死に先生に自由形を特訓してもらいました」
ほぼぶっつけ本番の状態で臨んだ決勝で、時岡は3位となり表彰台へ上る。わずか1年での彼女のこの飛躍は、誰も予想していないことだった。当然、翌年の目標は優勝となった。そして自由形も練習し、満を持して臨んだ3年目の全中では、予想を反してまさかの3位に沈んだ。
「前年とは違い、悔しかったことしか覚えていません。そこで高校では絶対にタイトルを獲ってやろうと、地元大阪の空手の強豪校へ進む決意をしました」
高校生になると、時岡は授業が終わると部活では組手を中心に練習し、その後に道場へ行って形の指導を受ける生活を送っていた。毎晩、道場から寮へ送ってくれる父親の車の中で、お弁当を食べていたという。そして迎えた3月、地元で開催された全国高等学校空手道選抜大会の形で初優勝を飾り、念願のタイトルを獲得することができた。そこから時岡の活躍は目覚ましいものがあった。2年、3年とインターハイを連覇。また3年生の時はアジアジュニア&カデット空手道選手権大会で優勝、国体でも2位に食い込み、誰からも一目置かれる存在となっていった。
【新天地での活躍】
高校卒業後の進路は、実業団へ進むつもりでいた。しかし周囲や母親に大学進学を強く勧められた。迷った末に、通っていた高校と同じ系列の大学の空手部では、大阪府の形の強化コーチが外部コーチをしていたため、進学することを決めた。そして1年次は、フランスで開催された世界ジュニア&カデット空手道選手権大会で優勝することができたものの、その後はけがによる故障が続き、時岡はスランプに陥ることになる。
「専攻したのが『こども学部』という幼稚園教諭1種の免許が取得できる学部でした。勉強も忙しいのに加え、大会前でも実習に行かなくてはいけないことがよくありました。思うような成績も残せず、卒業する頃は実業団へ行けるレベルにありませんでした」
そこで時岡は一般の学生と同じように、リクルートスーツに身をくるみ、就職活動を開始する。空手は続けるつもりでいたので、狙いをつけたのは、スポーツ支援を積極的に行なっているミキハウスだった。
「人気企業なのでダメ元で受けたら、5次試験まで進み、内定をいただきました。両親も好きなブランドだったので、すごく喜んでくれました。また会社からは、定時後は競技をしても構わないし、土日は大会を優先していいとも言ってもらいました」
こうして社会人生活がスタートするが、なかなか道場が開いている時間までに仕事を終わらせることができず、深夜に近所の公園でひとり練習をすることが多くなる。練習量の激減は、すぐに大会成績に響いた。
「仕事はとてもやりがいがありました。だから2年目の頃、このまま競技に十分に向い切れないままでは勝つこともできないので、引退しようか考えていました。ちょうどそのようなタイミングで、道場の先生を通じて若井監督が選手を探しているという話を聞きました。私はすぐに行こう!と決心しました。やっぱり自分には空手しかない、納得できていない自分に気づきました」
しかし、ここで時岡が気になったのは、ミキハウス入社を喜んでくれていた両親のことだった。悲しませるか、反対されるかもしれない。そんな気持ちを抱きながら両親へ西濃運輸空手道部の話を切り出すと、二人は「岐阜へ行ってきなさい!」と意外にも時岡の背中を押してくれた。実は両親も、思う存分空手をできていない娘を見るのが辛かったのだろう。こうして時岡は拠点を移し、再び空手中心の生活を始めることになった。
西濃運輸空手道部は、2012年のぎふ清流国体を目指し2007年に創部され、若井敦子氏が監督に就任した。それから2年後に、時岡など3名の部員が初めて入部し、活動が本格化した。しかし実際は時岡以外の2名は、対戦相手が必要な組手の選手だったため、他の道場で稽古を行なうことが多かった。そのため大垣の道場では、時岡は若井監督からのマンツーマン指導を受けていた。
「正直、ものすごく辛かったです。監督の視線が私から外れませんから…。しかし嫌でも体を動かさなくてはいけない状況に追い込まれたことで、体のサビが剥がれていくようでした」
その言葉通り、時岡は2011、12年の国体で5位に入賞すると、13年は3位とじわじわと順位を上げ、今年は高校時代の自身最高順位に並ぶ準優勝を飾った。見事によみがえり、更に進化し続けている姿は、自信がみなぎっているようにも感じられる。
「大垣へきた当初は孤独でしたが、それで自分と向き合うことができました。若井監督には人間的にも成長させてもらえ、それが競技に活きてきていると思います。今の環境に感謝しながら、1歩ずつでも高い場所を目指して進んでいきます」
彼女の快進撃は、これからも続く。
(文中・敬称略)