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活躍する社員

西濃運輸野球部 松本直樹さん(2017年12月27日)

Profile

松本 直樹
西濃運輸野球部 捕手

香川県出身
小学校の時に友達に誘われ入団したスポーツ少年団で野球を始める。丸亀高校、立教大学を経て2016年に西濃運輸に入社。その年の都市対抗野球東海地区予選からレギュラーとして活躍。本大会では試合を決めるホームランを打つなど、キャッチャーとしての守備力だけでなく、ここ一番での打力も魅力。今年のドラフトで東京ヤクルトスワローズから指名を受けた。

 「プロ野球選手になれたらいいな」小さい頃からそう憧れていたが、プロに行けるレベルではないとも思っていた松本は、高校・大学と学力で進学した。大学では野球部に所属するも、競争が求められる環境に馴染めず、目立った活躍は残せなかった。将来一般企業へ就職することを考えていた松本にとって、西濃運輸野球部からの1本の電話がプロ野球選手になる道をぎりぎりつなぎとめた。そして社会人野球での2年間の経験を通じて、多くのことを学び、選手としても人としても成長した彼は、自らその道を掴みとった。

【競争の世界で初めて味わった挫折】
 「野球をやっている以上、プロを意識はしていましたが、プロ一本でとは思っていませんでした。プロ一直線というよりは枝分かれした人生を想像していました。
 プロ野球選手になりたいと願う選手達は、県内外のレベルの高い学校へ行き、その中でレギュラーを勝ち取って、甲子園など注目される舞台で活躍することを目指す。プロ野球選手になるには、球団のスカウトの目に止まり、評価される必要があるからだ。ただこのように歩むことが出来るのは一握りの選手であり、レベルの高い学校に入るための競争、その中でレギュラーをつかみ取るための競争が求められる。
 中学生の早いうちからキャッチャーでレギュラーとして活躍し、四国内ではそれなりに知られた存在だった松本には、複数の私立強豪高校から野球推薦の声が掛かっていた。しかし希望すれば必ずプロになれる保証があるわけでもなく、将来を考えるならつぶしがきくようにした方がいいと親からのアドバイスもあって、悩んだ末に受験をして、公立高校に進学する道を選んだ。
 高校では、中学で実績があったため、すぐに試合に出ることが出来た。以降レギュラーとして活躍したが、甲子園に出場する機会の無かった松本には大学から野球でスカウトの声が掛かることはなく、学業で私立大学に行く道を選んだ。成績が良かった松本には複数の選択肢があった。
 「大学でも野球を続けるなら、やはり注目される東京六大学に行こうと思いました。その中でも立教大学はいい意味で雑草感があって、強豪校出身じゃない選手がレギュラーで活躍している。立教で頑張ってアピール出来れば、自分にもチャンスはあると思いました」
 松本が入部した当時、立教大学野球部には200人程の部員がいた。中学・高校では最初から監督の選択肢に入っていた松本も、大学で自分の存在を知るものはほとんどいなかった。レギュラーになりたいと思っている選手達の集まりの中、自分でこつこつアピールをして、監督にいい印象を持ってもらわなければ試合で使ってもらえない。そんな競争の世界に直面し、アピールしなくても評価してもらえたこれまでとのギャップに松本は戸惑った。
 「最初の2年間は野球どころではなくて、人間関係に悩んでいました。野球をやることで人間関係に影響が出る、それが嫌でした。野球を嫌いになっていて、練習に身が入りませんでした」
 ライバルとやり合うことが出来ない松本は「勝負師ではない」と監督から言われたという。仲良く野球がしたいなら野球部を辞めた方がいいとも言われたそうだ。そんな松本を救ってくれたのは仲間だった。仲の良かった同期は松本を自主練に誘い出し「ここで腐ったら終わり」と声を掛け続けてくれた。仲の良かったピッチャーは「お前と神宮でバッテリーを組むのが楽しみだ」と話した。応援してくれる仲間のためにも、競争の世界で頑張っていかなければいけない、そう決めた松本は3年生の秋頃になってやっと、競争の世界で戦う覚悟が出来、4年生の秋にはレギュラーになることも出来た。
 「大学時代の4年間は、もったいなかったという後悔があります。この4年間しっかりやっていたら、もっといい選手になれたんじゃないかと思います。競争をしていく覚悟が出来るまで、2年半掛かったようなものです」
 2年半を棒に振ってしまった松本。プロのスカウトから声を掛けられたり、注目をされることもないまま、大学卒業後の進路を考え始めた4年生の春には、野球人生もここまで、そう思っていた。そんな松本に朗報が訪れたのは6月になってからだった。監督を通じて、西濃運輸野球部から練習への誘いがあったのだ。
 「声を掛けてもらった時は一般企業への就職を考えて就活をしていました。それでも社会人で野球をやれるチャンスがあるのなら、練習に参加してみようと思いました。2日間練習に参加して、その後是非一緒にやりたいと電話をもらいました」
 大学時代に苦労した競争の世界。社会人でも当然求められる。大学で挫折した経験が無駄にならないよう、やり抜こう。そう覚悟を決め、松本は西濃運輸に入社した。


【選手として人として成長した2年間】
 松本が入社した当時、西濃運輸野球部の正捕手を務めていたのは、都市対抗野球優勝時にマスクを被っていた森だった。早速森との競争になったが、オープン戦、打撃面で結果を残せた松本は、1年目でレギュラーを任された。しかしその年の都市対抗予選では、今回代表権を逃したら、森に代わってマスクを被った自分のせいだと思い、毎試合吐きそうになるぐらいのプレッシャーを感じたという。第5代表決定戦に勝利した際は、自然と涙が出てきた。チームに迷惑をかけずに済んだ安堵の涙だった。要所でタイムリーを放つなど、期待された打撃面でチームに大きく貢献することが出来た松本も、配球面についてはまだまだだと感じていた。
 「佐伯さんをはじめ年上のピッチャーばかりで気をつかっていました。自分のリードでいいのかなと。先輩方に自分の主張を通すことが難しくて、勇気もありませんでした」
 そんな松本が変わりはじめたのは2年目を迎えたころだった。チームがより強くなるためには、要の捕手である自分が上手くならなければいけない。そう考えるようになったのは、勝利への執着心が強くなり、負けに対する恐怖心が強くなったからだ。給与をもらって野球をやっている以上、会社に貢献しなければいけない。中学・高校はしっかりやってそれで負けたならしょうがないと思っていた。今はしっかりやるのは当たり前、その上で絶対に勝つ。負けたら自分が弱かっただけで、「しっかりやったのに」は言い訳にもならない。これは先輩の勝利に向かって貪欲な姿勢から学んだことだった。そこでまず向かった先が、森のところだった。

 「正直1年目の頃は、森さんに気をつかっていました。レギュラーを奪った自分のことをどう思っているんだろうと。それを考えると怖かった。でもチームとして日本一を取るために、ここで尻込みをして後で後悔するなら、今行こうと思いました」

 大学時代、ライバルと上手く話すことが出来ず、人間関係に苦労した松本。昔の自分だったら絶対に行ってなかったという。一歩踏み出せたことが大きかった。それ以降、森との間で会話がどんどん生まれた。松本から積極的に話かけると、森も積極的に教えてくれた。
 これまで逃げた配球でピッチャーの持ち味を殺してしまっていたが、ピッチャーを信用し、ピッチャーの得意なボール、調子がいいボールを投げさせることでリードが苦しくならないと教わった。また普段からピッチャーとのコミュニケーションをしっかりとって、試合に入る前にその日のピッチャーの傾向や癖、調子を頭に入れてから試合に臨むこと、試合の途中でもピッチャーと会話があれば、次の回の調整が出来、結果が変わるなど、多くのことを教わった。1年目には出来ていなかったことだった。

 「2年目になり、自分から森さんに話を聞きに行くことが出来た。それからは他の人にも、同じようにコミュニケーションを取ることが出来るようになった。たとえ間違っていたとしても、言うことで得るものがある。そのやりとりで新たに会話も生まれる。そう思うようになりました」
 チームとしての勝利にこだわる。そのためにも自分も成長しなければいけない。そう考えるようになり、選手としてだけでなく、人としても成長できた。社会人野球を経験し、野球でメシを食べている自負心・プライドが出来た。
 「勝利へのこだわりはプロでも一緒です。代わりなんていくらでもいる世界。そういう気持ちを持ってプロでもやっていきます。1軍の試合で頑張っている姿を見せて、ファンの方に明日も頑張ろうと思ってもらうことが大事だと思う。早く1軍でプレーする姿を見せられるように頑張って行きます。そのためにもまずは周りから信頼されるキャッチャーになりたい。それが森さんから教わった、僕の目指すキャッチャー像です」

(文中・敬称略)


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