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活躍する社員

大垣ミナモソフトボールクラブ 主将 平川穂波さん(2019年01月09日)

Profile

平川 穂波
西濃運輸 輸送品質部品質改善課
(大垣ミナモソフトボールクラブ 主将)

北海道出身 24歳
中学の部活動で本格的にソフトボールを始めた。中学3年時にNTS(全国女子ジュニア育成研修会)に選ばれたことを皮切りに、高校時代にはU19、大学時代には大学選抜日本代表、東海地区大学女子ソフトボールリーグでは3度、捕手としてベストナインに選ばれた。悲願の1部リーグ(以降1部)昇格を果たした今年度より主将を務めており、現在入社2年目。

 大学引退と同時に競技人生にピリオドを打とうとしていた平川。彼女の背中を押したのは、「やりたいことをやりたくても、やれない人はたくさんいる。出来るところまでやってみたら?」という両親の言葉と、自分がプレーする姿を喜んでくれる祖母の存在だった。「キャッチャーでも4番でも、キャプテンタイプでもないんです」と言いながらも、置かれた環境で責務を全うしようとしている平川にとって、ソフトボールは“自分を表現できる場所”だという。明るく元気、同期やチームメイトが口を揃えて言う平川はソフトボールを通じてどんな経験をし、何を得てきたのだろうか?


【いろいろな縁が、ソフトボール人生を築き上げた】
 中学校のソフトボール部で外部コーチを務めていた父。その父に付いて行ったり、近所の仲が良い先輩とキャッチボールをして遊ぶことが小さい頃の日常だった平川。気付けば中学校のソフトボール部の一員となっていた。2年時にはキャッチャーとして石狩地方選抜に選ばれ、北海道大会に出場した。その大会での活躍が道内一の強豪校の監督の目に止まり、「うちに来てやらないか?」と直々に誘われ、進学を決めた。
 楽しく仲良くソフトボールをやってきた今までとは全く違う、と高校入学直後に感じた。寮の決まりや上下関係が厳しく、練習漬けの毎日でプライベートはゼロに等しかった。3年生になると実業団チームや大学から誘いの声があったが、どれも断っていた。ソフトボールで食べていける(仕事としていける)のは一握りの優れた選手のみ。私には力不足と思っていた平川は、昔からなりたいと思っていた教師の道に進もうと考えていた。
 そんな中、高校最後に臨んだ国体。勝てそうな試合に勝てなかったことで悔いが残り、もう少し続けたいという気持ちが芽生えた。そこで一度は断りを入れていた中京大学に監督から改めて声を掛けてもらった。「第一優先にしたい教員免許が取得でき、メダリストのコーチや大学日本代表選手が所属するソフトボール部で、自分の希望に合った環境が整っていることが決め手でした」
 平日は2時間、朝練が週3回と、大学での練習量は高校時代と比べて圧倒的に減ったが、自由に使える時間も増えたため、保健体育の教員免許取得に向けた勉強や、アルバイトにも励んだ。ただ、レギュラーに選ばれている分、ソフトボールを疎かにはしたくない。そう思った平川は、授業の空きコマを活用して男子ソフトボール部の選手と共に自主練習を始め、男子の練習メニューや身体の使い方からヒントを得て自分に取り入れていった。学業・部活動・プライベートの並立は大変だったものの、“自分で自分をコントロールする習慣”が身に付いた。その頑張りもあり、大学選抜の日本代表にも2度選ばれた。教員免許も無事に取得した平川は、8月末に引退を迎え、引退直後の教育実習で自分がやりたいことが明確になり、教師の道で進路を考えていた。そんな時に突然、監督から1本の電話が掛かってきた。


【自分にぴったりの大垣ミナモソフトボールクラブで再スタート、憧れの1部リーグへ】

 「イエスかノーで答えてくれ。もう一度ソフトボールをやらないか?」大垣ミナモソフトボールクラブ(以下ミナモ)からの誘いだった。
 この時点ではソフトボールに対する気持ちは切れていた。ただミナモは、中京大学のように自分で自由に時間を使える環境で、社会人として企業にも所属できる。まさに自分の求める条件にピッタリだったため、悩んだ平川は両親に相談した。「やれるとこまでやってみたら?やりたくてもやれない人もいるんだから」。その言葉が決め手になった。
 北海道から毎年数回自分のために駆けつけてくれる両親、試合観戦を楽しみにしている祖母のためにも、続けられる環境があるならやってみようと決断した平川が再び練習を始めたのは、引退から3ヶ月後の11月半ば、初めてミナモの練習に参加する日だった。しかし感覚を取り戻せぬまま、あっという間に練習試合が始まる3月を迎えた。同期2人は入団した最初の試合でいきなりホームランを放ち活躍。反対に平川は全く打てず、同期から置き去りにされているような感覚に陥っていた。
 「練習試合でも全く結果が出ていないのに、監督は期待して自分を使ってくれている。このままではいけない、何とかしなきゃ。」
 開幕前は調整のため練習量を減らすのが普通だが、不調にあえぐ平川は通常練習後に居残りでバッティング練習をひたすら続けた。しかし開幕1週間前になっても納得のいくプレーが出来ず、心と身体の準備が万全でないまま2部リーグ(以下2部)の開幕を迎えた。
 すると、開幕前の不調がウソのようにホームラン2本、打率7割で打点10点と爆発的な活躍をみせた。「切羽詰まって邪念がなくなったからこそ、結果が出せた気がします(笑)」と、その時初めてホッとひと安心。同時に、2部にとんでもない選手がいる!という平川の評判が広まった。ただ世間での評判とは裏腹に平川は、自身の学生時代の実績や開幕試合での活躍がプレッシャーとなっていた。監督のアドバイスや仲間と様々な練習方法を試すと、練習試合ではうまくいくようになったが、試合になると途端に出来なくなることが多かった。それでも「1部に昇格したい!」その一心で、たとえ自身のプレーが不振でも一喜一憂せず、チームが勝つためにはどうしたら良いのかを常に考えた。そういった努力もあり、クラブチーム初の1部昇格に貢献できた。
 シーズンを終え、平川は監督である溝江から新年度のキャプテンに任命された。「キャプテンでもキャッチャーでも4番タイプでもない、むしろチームの士気が下がった時に盛り上げる3番タイプなんです」任命された当初は腑に落ちなかった。けれど置かれた環境でやるしかない!そう思い、先頭に立ってチームを引っ張ることを決心した。
 グラウンドが整っていてスタンド席からお客さんの声が聞こえる。憧れの1部の球場は2部とは全く違う雰囲気だった。「今後は企業チームだけじゃなく、ミナモのようなクラブチームも女子ソフトボールリーグ全体を支えてほしい」とリーグの会長からも言葉をもらい、1部で足跡を残したい!という思いがますます強くなった。だがその思いがマイナスに働き、のびのびと自分達のプレーが出来ぬまま、わずか1年でミナモは2部に降格した。

 

【たくさんの人の想いを胸に、もう一度1部リーグへ!】

 溝江は「チーム全体を見て“自分が気付いたこと”を毎日必ず発信していた。キャプテンとしては当たり前だけれど、しんどい顔もせずよく頑張ってくれた」とキャプテンとして1部を戦った平川を称えた。一方で平川は、「“気持ちの作り方”がうまくいかず、結果が出なかった」と振り返った。いつも上位で気持ちに余裕があった2部とは違って1部では下位、負け試合も多くなる中で勝っていかなければならない。1部に残る技量がなかった、それ以上に試合に臨むメンタルコントロールができなかったことが、焦ったプレーにつながった。それが常に1部で戦うチームとの一番の差だったのだ。

 その反面、中学生の時に見た憧れの1部に立てたこと、その姿を両親や祖母に見せられたことが何より嬉しかった。支えてくれている人たちのおかげで今の自分が活躍できていると強く感じた。
 何より、これからのミナモに何が必要なのかが分かったという。それは“1部基準”で練習を行なうこと、次世代にも足りない部分を伝えていくこと。これらは1部を経験したからこそ得た気付きで、チームでの共通意識でもある。一流のピッチャーから安打を放つには、一流の球を打席に立って経験しないと、そのすごさが分からない。チャンスが少ない分、自分たちは何で稼ぐのか。苦手とする走力をはじめ、判断力・技量・ランナーの感覚等、1部基準で練習していけば、2部では当たり前に、1部ではしっかり勝てるレベルになる。降格した今、恐れているのは2部への慣れ。1部チームとの練習試合等を通して2部への慣れを防ぎ、再び1部昇格を目指していく。
 「昔から感謝をプレーで返すとともに、頑張っている姿で誰かの力や元気になりたいと思っていました。厳しかった高校時代、自由に過ごせた大学時代を経てミナモへ入部した今、このチームは他の企業チームよりもたくさんの方の力や想いがあって成り立っていると感じます。来年度は自分の代が最年長となることもあり、どっしりとチームを引っ張る立場を担うこと。そして必ず1部昇格を目標に頑張ります!」
 挑戦すると新しい気付きや見えてくるものがあると体感した平川が、再び1部で輝く姿を早く見てみたい。


(文中・敬称略)


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